作品

有島武郎、みだらな機械──中島葵にささぐ

芥正彦
国文学 2003年6月号、特集:いまなぜ有島武郎か


86年にF・ガタリが来日して東京を語ったことがある。「西洋からやってきた流行はみな、抵抗にもあわず日本列島上睦をはたしてきた。だが、われわれの<資本主義の精神>を潤しているユダヤ─キリスト教的罪責感の波がこの島々を呑みこむことは決してなかったのだ。日本の資本主義、それはミュータントだということになるのか? 幕藩体制の封建主義からうけついだアニミズムの力と、ここではすべてがそれに帰されるべきものと見えている近代のマシニックな力と、その両者の怪物的交配の結果なのか?」と。100年前からすでに北村透谷・有島武郎・芥川龍之介を自殺させていったこのアニミズムのミュータント化への侵犯と、遅すぎる拒絶と放棄、そして究極の空虚と死。これは60年代を経て、今も変わらない。

「大正」という“女性的身体”は、ディオニソスの通過を内部に秘めつつ、たえずマゾヒスティックに発情している。日露戦争による「死の充満」、第一次大戦による「バブル経済」と「世界同時性」の成立がそうしている。そしてアニミズムのミュータント化のさらなる進行。

C・G・ユングならこの大正期を“親方不在の「ペニス入れ」”と呼ぶ。予定調和的に処女が飼育しているレバイヤタンを中心にして成立した共同体で、日本アニミズムのミュータント化は今なお、様々な狂信的宗教団体やテロリストを産むことになる。

伊藤博文の“作品”としての帝国憲法が発布された明治22年、文部大臣 森有礼が暗殺された。11歳の有島武郎は、海軍志望から農業(傍点:農業)への性的転向を思う。そしてこのときから彼の内部で秘かな闘いが始まった。絶対天皇制全体───自らの生存と出生を保護している環境でもある───に対する本質的懐疑と内的絶縁がトラウマとなって成長しつづける。『皇室は民族のΑでありΩである。故に皇室は絶対である』(西田幾多郎)等の無根拠性・捏造性。“政治という虚構”からの覚醒。もう一つの無限(傍点:無限)としての文学を手にし、生の実感とその延長上に新しい意味を現前させること。そして、この自己を宙吊り(傍点:宙吊り)にする“不吉なペニス入れ”からの脱出、あるいは決着!

北村透谷は、アニミズムに対する魂の不安を救済するものとして、「エマーソン」の『自然論』を発見した。そしてその体験は有島のホイットマン体験に連続する。聖書に代って生涯『草の葉』が有島を支える。“愛は宇宙の龍骨を支え”“血と肉と霊と書葉は互いに互いを交易する”聖性の生の劇場論として、身体と大地の全天的一致を詩(ルビ:うた)っている。この経験は有島の意識を引き裂いた。(それはハイデガーのへルダーリン体験であり、アルトーのニーチェ体験であり、土方巽のジャン=ジュネ体験なのだ。)愛の臨床である。有島の、若くして心的に去勢され廢墟のような身体に、水と光が満ちた瞬間だった。しかしそれは福音者ヨハネに潜在するディオニソス的なものを無意識に体験していたことにもなっていた───! ともかくプレザンスを切り開く斧は手にした。

アニミズムと近代のメカニズムのミュータント社会において、やらねばならぬことは無数にあった。自働回転するモルモットのように!(実際に彼はユマニテのモルモットであったし、坑内カナリヤでもあったが)“淫(ルビ:みだ)らな機械”のように。デモクラシィの基本単位である個々の個の個性化、理想的共同体の実験、及びアナキスト達の資金提供、自己のアニマの表面化としてのフェミニズム運動、たえず「最新状況の渦中にあること」を欲する大衆のアイドル的対象にまで。一方で北海道の荒野を開拓する70戸の人達の生命の責任をもたねばならない。強迫観念的なこれらの同時的行動と持続は、廃棄したはずのユダヤ─キリスト教的な罪責感なのだ。しかも今度は無神論者達からの強迫だ。“老いたる海原”の滑稽さは、「太初(ルビ:はじめ)に愛ありき」の幼児性を気味悪く笑っていた───。

しばしば彼の自我が不意に去勢される。たとえば唯物論者に、たとえば女性の原罪意識のない性行動によって、あるいはそのはじめから彼の自我は殺されていたことに気付かされるのか?しかし文学が!彼を利己主義者にし、息を吹きかえす。『石にひしがれた雑草』のストーカー以上の悪魔的ネクロブィリズムを自己造形力として発揮する。

彼は生活の規範にトルストイを求めるけれど、リビドーの発見者としてのドストエフスキー的人物を描く『或る女』。しかし実際にドストエフスキーの『白痴』を読んだのは、死の一年前で、レアリズムのもつ本当の力と恐怖を味わうことになる。

愛は際限のない闘争であり、“芸術を産む胎”であり、世界を運動させる生の通貨であり、“精子の揺籃”であり、革命の生殖器であり、宇宙のすべての技法をふたたび言葉とともに人間の裡に隠す力であった。

遂に宣言すべきを告げ、自らの境界を決定し、愛の臨界点へ近付く。絶対天皇制に保証されたすべての財産の返却・放棄を決行した。カエサルのものはカエサルへ───そのはじめ天皇の名で贈与があり、それをふたたび天皇へ逆贈与する二重の自己犠牲であり、ここに彼の決定的俳優性がある。天皇という俳優性を越えて、正に「王」になった瞬間である。

キリストは抹殺され、ただただ無がある。復活も十字架すらないゴルゴタが惑星を蔽っている。この途轍もない疲労!

そして小さなペニス入れが届けられる。ディオニソスの秘儀が襲来した───聖性と暴力・死の無力・生の沸騰───性愛の輪の中で二つの遊星が交通する。互いに互いの存在の呼び声を聴く、一つの淫らな機械が今、空虚の極限を突き破った。

演劇家・ホモ・フィクタス主宰───


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