原爆/天皇 そして三島由紀夫と東大全共闘

芥正彦



原爆、天皇、三島由紀夫、東大全共闘。大袈裟な名前を四つほど出しました。それはもう、それがそれである、それでしかない、ということです。

なぜ原爆と天皇を一緒にするか。私たちは原爆とともに生まれ、瓦磯でオギャーといい、天皇が人間に過ぎないというような、平和憲法、日本国憲法ができた。そのとき三島由紀夫は 『仮面の告白』で、俺は生まれたときの記憶があるという捏造ねつぞうの眼差しの一点を設定することで、あの作品を成功させた。しかし、我々は捏造でなく、原爆の輝きによって、ありとあらゆる無根拠なオカルト的権力が消滅して、瓦磯が瓦磯である真実そのものの光を放ったところにオギャーと生まれてきた。その精神と眼差しの始まりを、二十歳になったんですから、自分の居場所で再現してみせるということで、我々は解放区をつくり、いかなる権力も介在できない空間を誕生させたわけです。

天皇の消滅ということに関して、認められないという人たちがいろいろいました。もちろん今でもいるでしょう。でも、天皇が何ゆえに天皇であるかというのは、殺人の正邪を分ける力であったとしてもその本質は、身体無き器官であって、おとぎ話とか神話とかでしか一応ないわけです。嘘の話でも、ベニヤ板に描いた絵でもいいから、その絵を真実と信じて、何人も何人も残虐に死んでみせればその "残酷劇" の力学によって、共同幻想は成り立つわけです。そして、存在の恐怖におびえる原理主義者達が叫びます。「ああ、あれこそは正に、エロスとタナトスが一体化した、超越的美とオルガスムスの天皇だ、故に神聖にして絶対だ」と。でも、これは本当の意味で、水戸学の形而上学的垂直性でもなければ、価値分配体系の中心線でもなく、明治以来、外圧抵抗女捏造された、 "天皇は日本民族の始まりであり、終わりであり、創造者として絶対である" というオカルト的 "国家的心中装置" もしくはフロイト的な "民族的死の衝動装置" にすぎず、いくら特攻隊が苦悩し、美しく死んでも、又、前線で置き去りされた兵士等が飢えと病で大量に死滅しても、水素は水素であるという事実一つ変えられない。私たちは、水素は水素であるというこの物質の処女性の輝きを、権力によって汚されない形で、新しくみずからの身体から持ってくれば良い。それを最初の一点にしようというのが、 私たちの、 ささやかな願いだったわけです。いいかえれば、 「天皇」というオカルト的絶対無に対して、第一原理としての、絶対知としての「原爆」の出現が対置されていたわけです。三島由紀夫の「死の原理」に対して、我々の解放区の新しい無と知と「生の希望」が対置されることになります。

もう一つ言いたいのは、三島さんの文学が、なぜ最終的に 「天皇」は国体であり国体は民族生命体であり絶対である、そしてこの国体こそ日本文化そのものの中心であり敷居であり悲鳴であり井戸であると叫ばなければならなかったのかということ。これは、天皇が自然と言う大虚無から捏造された権力であるということと、彼の文学がその虚無から絶えず悪を捏造する文学だということを証明しています。彼の文学の中に善人がいるのなら一人でも出してくれと言いたい。なぜ、あんな善人が一人も出てこない文学が成立するのか。それは彼は悪がなければ発情しない、要するにペニスがエレクトしないからで、彼にとってペニスのエレクトだけが真実だったかもしれない。そういう個人的な美や真実を国家的なものや、社会的なものや、芸術的なものに敷衍するのは結構だけれども、いずれ責任は取らなければならないわけです。

三島由紀夫と全共闘が対立するのは、ちょうど物質と反物質のようなものと見る人が多い。物質と反物質が出会えば消滅するわけでゼロになりますね。そのゼロに対する主体性と主権性がどちらにあるかといったら、私たちの側にあるわけです。天皇制は負の権力です。ヨーロッパ的な真善美、要するにアリストテレスの言う第一原理があり、宇宙にさまざまな存在を形成し、物質を運動させる。それは一つの世界経営する力としても存在するわけですが、こういったヨーロッパの原理が資本主義 の発達と共に十八世紀あたりからだんだんと消滅して、代わりに人間の悪徳が絶対化してくる絶対悪の歴史が生まれるわけです。それは言わば「死の本能」としてのフロイディズムと自己保存と攻撃性、それに性的民族美学が融合してありもしない絶対的「父権制」を捏造し、国家的悪徳を独占支配する日本の世界歴史上への出現、例えばロートレアモンの『マルドロールの歌』がありますけれども、あれをよく読むと、ヒットラーの出現を予言しているし、アジアから神の代理人的な絶対天皇制のようなものが飛び出てくることもある程度予言されているわけ です。日本だと明治政府ができて間もない頃です。ロシアでは 『罪と罰」が、ドイツでは『資本論』第一巻が出版された。フランスではランボー、ゴッホ。彼らはそろって「原爆」の出現 を予言している。しかし彼らは、宗教は否定しても、キリストの聖性、ひいては人間の善性は否定しない。要するに "イエスは復活していないから、我々は芸術をやるんで、我々のクソや精液や汗には少なからずイエスの臭いがするのだ" という、こういう私やランボーの考え方。それは、後々、数々のロックスターを生んで今日になってますね。ですから、ロック・ミュージックというのはそういう意味で、ランボーから始まった新しいディオニュソス的な形式だ。

三島さんにおいてはニーチェ、ヘルダーリン的な、全天が永遠の性欲でおおい尽くされた浪曼主義的なディオニュソス理論だけが幅を利かせた。バタイユ路線もありますけれど、それは、負の、マイナスの側の世界であって、三島さんは死の裏側に陣取って、ある程度頑張っておやりになった。明治も最初の二十年間ぐらいは国家の形をとってませんが、それが、二十二年にプロイセン憲法をほぼ丸写しの帝国憲法ができて、変な、絶対にして、神聖で侵すべからざるものが立てられる。すると、各人々々の内部における何か、絶対譲れない何ものかを天皇と呼ばなくてはならなくなるという論理では三島さんは一貫していますね。それはこの教室で我々に向かって言ったことでした。

欧米世界、特にユダヤ=キリスト教に対抗してヒンズー教とその存在論で『暁の寺』を書いて難渋していたころで、私たちと出会って、私たちの、ある意味では解放区をつくって、日々屈託なく生きている、原爆的エクスタシーを横取りしようとして来たのだろうとは思っているんですけれども。

第二次世界大戦は、世界歴史上 "神の不在" における大量生産大量消費大量殺戮による世界経済原理の統一を巡っての、 "アポカリプス" であると同時に、アリストテレスの言う第一原理とその世界経営=オイコノミアの権利を争奪する戦争だったと言えます。即ち、歴史的正当性を主張する米英に対して、「ヒットラーの第三帝国」、「プロレタリアート独裁によるソ連」、「絶対天皇制による大東亜共栄圏」がそれぞれ人類支配を巡って四つ巴で殺戮にあけくれたわけで、これぞ「負のオイコノミア」支配と言えなくもない。実は、善は秘密の不可能性に幾重 にもおおわれたままです! 人間が善であるというのは誰も証明したことがない。イエスが証明しようとしたけれども、やはり悪徳の海の中で殺される。なぜ殺されたか。それは神の言葉を盗んだからだ。自らを "神の子" と握造したからだ。人間から財産を奪うのなんか大した悪じゃない。ただ、神とともにある言葉を神から盗んだということは最高級の罪悪だということで、殺される。神を呼べば、即ち神を父と呼び、自分の言葉を神と同じ力とみなせば、呼んだ神の偉大な力によって自己を出来うる限り残酷に犠牲にしなければならないという神呼びの儀式。それは今始まったわけではなくて古代インド、ヴェーダの昔からあるわけです。その死のあまりの残虐さのために、世界は "テネブレ" に包まれます。そしてその非道な悲しみの中から、神や器官なき身体として善なる力(救世主)が復活するのです。

三島さんの場合、みずからの悪を正当化するために、死者達を代弁する『英霊の声』で天皇の名において絶対悪を呼び出しその呼び出された神の名において文化の防衛を果そうとする。又、それによってマッカーサーの占領政策の手先となった昭和天皇の戦後責任を問い、アメリカと自民党と資本主義と敵対し、そのアメリカ・天皇・自民党という体制三悪に向かって最終的には殺人者となって行動する。それは、『金閣寺』の最後、『臨済録』示衆の章を持ってきて言うように、仏に逢っては仏を殺し、祖に逢っては祖を殺す。そうやって殺し続けてゆけば、どんな殺人も正当化される。要するに鎌倉時代、武力によって国家をつくった最初ですから、平安仏教を全否定した上で、誰かが殺人を正当化しなければならない。幕府自身、善を保証するために殺人力を必要とする。そこで自分に都合のいい正しい殺人と悪い殺人を分ける力を天皇とする。この人間の理不尽、これを天から降りて来る垂直なものと見て、権力がいろいろなものを捏造してきたのが歴史だけど、人間はこの悪徳の流れに自分たちの血や、大脳や、臓物や、精液を垂れ流しながら生きてきたわけで、これをみんな見ようとしない。

三島さんには『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜革』という、十九歳の時の死のための死が充満している作品がありますね。日々こういう殺人をした、こういう殺人をしたという、少年のエクスタシーの歴史ですけれども、あれがいろんな形で、その後の三島さんに影響を及ぼしているのは間違いないんです。しかし、殺人者となって動き始めた以上、自分で自分を殺さない限り終わりがない。

あの十九歳の眼差し。あれは、法学をドイツ語で学び始めたあたりからだと思うんですね。明治以来捏造しつづけた天皇との生命の一体化を唯一とする国体の美学が絶対悪に変貌しつつ崩壊しはじめたのが彼が生まれ生きた「昭和」でした。天皇というひとつの曖昧なもの、名づけ得ないものを強引に名づけてしまった。特に大正後期というのは、明治の頃の空間はもう消えて、大正天皇の時代のリベラリズム、デモクラシーとかシュールレアリスムとかヒューマニズムとか、ニヒリズムやアナキズムやコミュニズムまでいろんなものが世界と同時代で入ってきて、ある意味で天皇の絶対性が消滅した時代で、その白樺派が今、宮崎駿さんなんかの文化として生きていると私は見ていますけれども、要するに関東大震災を境にその反動で軍部による国家経営の乗っ取りと軍国化が一気に高まったまま「昭和」 になる。三島さんはアンチ学習院文化として、東大法学部に来て、ドイツ憲法が国家の絶対性を打ち立てたやり方を、自分の内部でもう一度やってみせた。エクスタシーの最中にその死の深まりの裡に「存在の呼び声」を聴きつつ、 真の絶対権力のもつ悪の耽美性審美性を『わが友ヒットラー』で文学的に正当化しようとしている。要するに悪を正当化するためにどうしたらよいかということに、三島さんはほぼ全生涯を使ったのではないかと思います。でなかったら、平和憲法下で『アンチゴーネ』のドラマトゥルギーを実行したに過ぎなくなってしまいます。それが福田恆存氏です。問題は反革命家として、アメリ力・天皇・自民党を敵としつづけねばならず、その極度の緊張と疲弊の中で、書き損じた原稿にすぎなくなってしまった現実界を前にして、死と器官なき身体に侵入され、始末に負えなくなった彼のムダな自然としての身体をどう処理するか、それも人工的に人為的にあくまで完全にそうあるべきでしかないというふうに装い尽くしての、自己殺害計画の一点にかかって来た。 ここではじめて彼は荒野に到達した!エロスでなく、タナトスの中心点に立った捏造された絶対美を正当化する絶対無を演出するだけになったと言えると思います。絶対的に人工的な死を!ということです。そのとき悪の自然、生命国体論が復活可能だと考えたのでしょう。

悪だから悪いというんじゃないんですよ。悪やエロティシズムはバタイユやロートレアモンをはじめとして近代では文学そのものだと思います。その分、政治が悪であってはならないのですが、現実はいつも逆になる。それに、たとえユダヤ=キリスト教的には絶対悪であっても、ヒンズー教では生死や善悪はそこにある宇宙的日常にすぎないですしね。



司会(井上隆史) たいへん密度の高いお話をありがとうございます。三島由紀夫と全共闘は厳しく対立していたはずですが、しかし、お話を伺っていますと、芥さんは三島由紀夫について深く理解なさっていて、あえて言えば共感なさっていたところも多い、と言いたいくらいです。それでは、四十六年前、 実際にこの場で芥さんが三島と討論した際にはどうだったのか。当時の映像を見ながら、お話を伺いたいと思います。(「三島由紀夫 VS. 東大全共闘」の映像の一部を投映)

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芥(全共闘C):日本がなければ存在しない人間。

三島:それは僕だ。(会場笑)

芥:──ところが、ぼくの祖先は一向に日本の中にも見つからぬし、どこにも見つからぬ。

三島:ああ、そう。

芥:期せずしていたら、僕が異邦人になっていたんじゃなくて、周りが異邦であったわけだから、これですんなり二十一世紀に入っちゃうわけですけれどもね、我々は。

三島:なるほどね。あのね、今、少し問題の次元を低く下げましょう。例えば解放区の問題は非常にわかりやすい問題だと思うから、解放区を論じたいと思うんだが、開放区というものは、一定の物にぶつかった瞬間に、その空間に発生するものであると考えていいですか?

芥:いいです。

三島:いいですね。その空間、あるいは歪められた空間か、つくられた空間か知らんが、その空間が一定時間持続する。

芥:空間には時間もなければ関係もないわけですから、歪められるとかも…。だから、本来の形が出てきたという ことで、それをさっき彼は、自然に戻ったと、おそらく幼稚な言葉で言ったんじゃないかと思う。(赤ん坊を抱きながら応答)



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東大全共闘時代



三島:なるほど。そうするとだね、それが持続するしないということはね、それの本質的な問題ではないわけ?

芥:時間がないんだから、持続っていう概念自体おかしいんじゃないですか。

三島:そうするとだね、それが三分間しか持続しなくても、あるいは一週間、あるいは十日間持続しても、その間に本質的な差は、全然次元としての差すらないですか?

芥:だって、それは比較すること自体がおかしいわけですよ。

三島:それの?つまり次元が違うから?

芥:例えばあなたの作品と、この現実のずっと何万年というのを比べろといったって、これはナンセンスでしょう、おそらく。

三島:ところがだね、俺の作品は、〔現在と─── 以下〔 〕内は井上による填補〕何万年という時間の持続との間にある、一つの持続なんだ。僕は空間を意図しないけれども時間を意図している。そしてね、解放区というものは空間を意図するものならだね、それがどこで時間に触れたかということを興味をもってあなたに聞きたい。ところがだね、革命戦術としてだ、ちょっと聞いてくださいね、例えば解放区が一週間もったら大したことだと思うんですね、革命戦術としてね。ところが、それが三時間か四時間しかもたんということはだね、もたなかったのか、あるいはもたなくてもいいのか。本質的に、革命にとってそれはもたなくてもいいものなのか?

芥:まあ僕は、直接指導者じゃないから、はっきり言えば、だから、出てきた事物に、逆にやった連中の方がやられてしまうっていうことですよね。

三島:そうすると、解放区がやられちゃったのは事物であって、機動隊じゃないのか?

芥:そうでしょ。

三島:あれは、事物が解放区を崩壊させた。それは時間と考えてもいいわけだ。

芥:むしろ時間じゃなくて、現象形態の事物なり空間でしょ。

三島:現象形態の事物なり空間なりは、単なるそういう瞬間に発生した空間というものをいつも押し潰す働きしかしないじゃないか。

芥:え?

三島:押し潰す働きしかしないでしょ、現象形態の事物なり空間なりは。

芥:そうじゃないでしょ。それは関係をもって、そこに対処するからですね、文明をもってしたり。〔しかし〕たぶん、みずからの存在をもって事物に対処することから、おそらく人間の歴史は始まっているわけで。

三島:歴史ってのは持続でしょ。時間がそこにあります。

芥:持続じゃないでしょう、むしろ。

三島:え?

芥:可能性そのものの空間のことでしょう、おそらく自由そのもの。ところが、普通、人間というのは自由に直面すると、そこで敗退してしまうという、そういう文明の習慣が身についてしまったということでしょうね。〔しかし〕全共闘のバリケードにしろ何にしろ、一つの歴史の認識の 一形態としてですね、だから〔それは〕、狙撃銃的な認識じゃなくて散弾銃による走りながらの認識、サルトル以後の認識の形態だと思う。

三島:あれが非常に新しい認識の形態だとすると、それに持続というものを加えたいと言う気は全く初めから毛頭ない、そこで意思が介入する余地はないわけですか?例えばですね、一つのものをつくるとしますね。このたばこをつくった瞬間に、このたばこが消えちまったらのめないでしょ。どうしたって、たばこっていうのは専売局から僕の 手元に入るまで一定時間を経過して、ここへ来るわけですな。そして僕はたばこをのんで、皆さんの前で、努めて余裕を見せてるわけですな。(会場笑)これはね、既に時間の恩恵をこうむって、生産関係がずっと我々のところへ……

芥:むしろ時間が保ち得ないから、たばこを吸うわけでしょ。
三島:……あ、ははは……(会場笑)


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司会:時間について、三島由紀夫と芥さんの間で、実に興味深い議論が行われています。それからやはり赤ん坊。赤ん坊のことを聞いてみたい。何を意味しているのか?

芥:誕生したばかりの新世代代表です。あの解放区のように。私の腕の中の、未来から走り寄って来て "まだ湯気をたてている生命" !ですから反=三島的事物。希望のテーブルに招かれたお客さまはあれはあれで無時間として無罪な力です。私のいのちの中で一つの声が受肉して今ここに到来したのです。それこそ何万年もかけてです。でも十カ月しかかかっていない。さらに愛は同時刻圏で一瞬です。空間への劇の参入ですから。このように光の無時間性が、詩の超越性とともにある私達の解放区、そのアインシュタイン力学的空間に対して、とても古い万有引力のニュートン力学のその絶対的時間代表としての三島さんの言う持続や時間はみな、権力の持続というものが前もって準備されている時間で、戦争の持続なのです。ですから、せっかく我々がつくった美しい聖なる空間を、権力の持続という形で権力と対抗させたら、これは負けるに決まってるんだから、そんなもの最初から念頭に置かない。我々は物質の輝きとともに空間の聖性を己が生命を通してつくる。三島さんは捏造を正当化する時間の持続で文学をつくる。そして、三島さんの時代、要するに天皇ヒロヒトが即位し、原爆が落ちるまでの間の二十年間に悪を刷り込まれているわけです。身体の不在、自我の不在、あまつさえ精神の不在までを。要するに、奪われ、取られている。だから、空襲警報のサイレンが鳴れば真っ先に防空壕の中で、うっとりした死体を夢見る。そういう人の時間の持続というのは夢の中の持続で、単なる無能力の持続に過ぎない。だから悪になるわけですし、文学でしかない。ただ、それは彼にもわかっていたと思いますよ。

そこで死とエロティシズムではなく、ただそれがそこにある解放区に生とアガペーの象徴として赤ちゃんが出てくるわけです。原爆・幼子・平和憲法。要するに私たちが赤ちゃんだったとき、瓦磯だらけで、人は本当に赤貧と栄養失調と悲鳴の中で、それでも赤ん坊を抱きながら、焼けただれた石塊を秘蹟のパンにかえながら、一所懸命生きてきてくれたおかげで、私も東大入って馬鹿なことをやれたわけですから、これはもちろん感謝。 そういったひとつの新しく生成したての空間の聖性への感謝の発現であり、それは光と無限空間なんですね。 そこは、すべての関係や因果が消滅する光の同時刻圏の内部、この空の空なる空、神という敷居がはずされた空間の全的エクスタシー空間、エントロピーとアンチエントロピーがいつも過不足なくつがい合っている生命誕生中の空間、知覚と認識が同時起る即ち、すべての悲鳴が思想として実現可能になる空間に、今が今を通過するこの今。形而上学的に言います。即ち「解放区の本質」であるここにあってはじめて "至上なる自由" が発動し、欲動は全的に発動する。その中心に真空が生まれ、自己の全属性が噴出する。ところが三島氏は、こののちの不可避で不可解な事物との絶えざる衝突が内からも外からも発 生し、無数の外傷が生まれる「時間」、他者と不可能性という「文明」が支配する「時間」、関係と因果律の支配を自らの本質としてしまっている。

空間の変貌はあります。空間の無数の変貌を、事物の変化を、 我々は時間と呼んでいるんですから、事物に無数の存在があり、 存在が変化する空間があるならば、その空間の無数の変貌や空 間の中での存在の無数の運動から時間を見ればいい。ところが三島さんの場合、全てが統一された時間で、これでは「天皇万歳」という絶対的遠近法のバニシングポイントの一点をはずれては生きていけないわけで。わかります?

だって、私たちの眼球が持つ時間、聴覚が持つ時間、ペニスが持っている時間と、大脳も四階建てで、一番下はコンピュータですし、二階目は爬虫類、三階目は哺乳類、四階目は私たち人間なんですね。それぞれみんな違う時間で運動している。

なのに、たばこが出てきて、ここに時間があると言ったって、 そんな商品なんて紅塵のように、日々、何億兆というものが生まれているわけだから。わざわざ時間に固執するということは、 何か権力を握造し、それを押し付けに来ているに過ぎないのですよ。自己が正しいと思ったり、自分が愛しているものを他者に押し付けるのが悪ですからね。だから天皇は悪癖の、絶対的なオカルト国家の象徴だったわけです。あれ、もう人間じゃないんだから。人間としては単なる立憲君主制の君主に過ぎませんね。これはヒロヒト自身のレアリズムがそうやっているわけではなくて、絶対にあの憲法からそうなっているわけです。そうすると、死のう団とか昭和初期に出てくるあの一連の動き、 あれは大御心というもう一つの天皇とは別な神を呼ぶわけです。日本民族のアルファでありオメガである天皇=死の本能としての国体。だから死ななければならない。

しかし、かりそめにも人間が時間を統一するなら、それは通貨のような物差しや「数」によらなくてはならない。現に光のスピードが世界を測る目盛になっている。権力や天皇や革命なんかではないのです。絶対的な時間が人間には無いのは子供でも分る、それを必要とするのは例外無く殺人者である。殺人を必要とする者が、それを文学で代用できるか、できないかを実行したのが三島氏です。で、ありもしないものをあるかのようにみなし、存在を時間と屈折のかたまりのようにしか見られない人間達が、それを解きほぐすべく文学を求めるのは分るけれど、例外無く彼等は権力的である。

大御心というのは、もともと日本民族が仏教を自らの無意識の中に構造として取り入れてから千年以上にわたって、あの慈悲の眼差し、その生命の膨らみを愛し続けてきた空間の持続であって、釈迦の前では生きとし生けるもの皆平等なわけで。これは親鸞が言っています。だから、親鸞はカルチェラタンをつくる原動力になってるわけです。

要するに空間を今一度新しくするか、世界を形成するときに、 新しい聖性を呼び込まないかぎり……。それで聖性というのは神がなくても、我々のこの身体の構造上、その生命が持っている空間としての超法規の法のようなものがあるわけです。だから、人間のように一番弱いものが一番繁殖してしまう。そして 一番暴力的になる。ふしぎなことです。生命自体が持っている、 言葉にできない法のようなもの。一番強力なユダヤ教は一番弱い民族が発明しているように。仏教というのは、逆説的にこれが一番強い宗教ですね。ヨーロッパで言えばマリアの思想です。 ですから、ドゥルーズが「釈迦というのはヨーロッパではマリアなのだ」と何のあれもなく、スパーンと言ったりしますけれども、その通り。無意識(シャカ)から意識(キリスト)が生まれた。

そして、人が実際生きるのは、ヒンズー教のように、ビオスというよりゾーエーなわけで、草や、虫や、鳥や、さまざまな音楽も生まれ、そして、生体も死体も一つものとして消えていくこの大いなる運動、無数の、人間の頭なんかには数えきれない時間のとてつもない運動がある。 そして、その中心に無時間 の光の柱があり、愛の同時圏が発生している! だから、それをいちいち時間と言ったってどうしようもないので、 空の空なる不可能性の解放区空間というふうに新しい無とエネルギーを言う。そのほうが三島さんも 「え?変なやつがいるな」ということで興奮するだろうという、私の愛に満ちた計算です。

司会:ありがとうございます。芥さんがお考えになっている 空間というものが、いかに深く大きな広がりがあったかという ことが今のお話でよくわかると同時に、三島由紀夫とこの場面 においては、やはり十分コミュニケーションがとれていなかったのかな、という気がします。専売局からたばこがここまでやって来る時間ということを三島が言うのは一つの比喩ですから、これはもっと存在論的なレベルの話としても考えられるでしょう。この点は、今日、後で「『豊饒の海』論」もありますので、そのときに論じられればと思います。
もう一点、歴史的事実から言うと、ここで討論が行われたのは四十四年の五月てすから、つまり安田講堂はもう陥落した後。だから、既に全共闘の運動は「敗退」した、という認識が三島にはあったのかとも思います。この点についてはどうですか?

芥:民主主義というのは、間接制だけが民主主義ではなくて、 直接制が不可欠なシステムだと私は思ってますから、新しく知を欲する知的な市民の権利として解放区をつくるということは、 基本的人権の一つにあってしかるべき。要するに愚行の権利とでも言うべき。愚行権というものを、憲法は、これから改正するとき、等しく認める必要があると思っています。だから、十八歳以上になったら、意見があったら、相手が権力を押し付け てきたら、それを介在させない空間をつくる、例えば大通りに、 銀座通りにバリケードをつくって、 発生したその聖性をかけて首相に向かって、やはり一言二言は言う権利があるということですけどもね。そしてあのとき嫉妬深い三島さんは我々の新しい原爆的無時間を、───タマシイと物質が一つになる光の只中 の無時間なのですが───エントロピーとアンチエントロピーの過不足ない等価性がそこにあるその切断性、関係を切断する力を嫉妬したのです。存在が即闘いとなっているという空間です。 あまつさえ乳飲児までそこにはいました。生きているということがそこでは運動なのです。

司会:わかりました。「愚行」と仰いますが、どういう状況であっても闘いを続けるべきだし、その闘い方があるということでしょうか。 関連することもあると思うので、もう少し映像を見たいと思います。

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芥:我々がいる、事物があった。 それに対してイマージュをもってするやり方はサルトルで潰れてるわけで、むしろイマージュを事物で乗り越えるとき、そこに空間が生まれるわけです。我々はどうしても苦しいから事物にイマージュを与えつけるわけですよね。目をつぶった世界だけれど。日を見開いたまま事物に対処する。 そのとき訪れる一つの光に対して、事物を乗り越えさせる。それが、その最初の形態が恐らく身の回りの全てを武器に変えるということでしょう。コップでも、パッと見たとき、これは使えるか、 使えないか、これだけで済む。むしろその方がいいというのは、それですけどね。自分の身体があると。これが使えるか、使えないかまで、それは向かわなければならない。
だって、我々と事物の間にあるのは何かっていうことですけれどね、僕はなんにも見えないんで、そこに国家があ るとか、体制権力があるとか何とか、いろんな、教えてくれる人がいますけれども、僕にはわからないというようなこと。その辺から僕はもう一度やっていきたいことですわね。
 
三島:今のは非常におもしろい話を伺ったんですが、二つだけ、ちょっと疑間を提起したい。一つは、名前っていうものがない世界。つまり、自分が名づけられることがなく、 ──名というものは一つの伝承ですから、既に──その名 のない世界でもって、いかにして我々は関係づけられるっていうことが可能であるかっていうこと。これを一つ伺いたい。 それから、物を、自分が存在すると同時にそれを利用する、つまり利用するということの中に、目的論的見地がどうして入ってこないで利用ってことがあり得るか。我々は匙を匙という形を見るとき、 その匙は口にものを運ぶための目的論的な道具である。目的論は無しにして利用ということがあり得るか。この二つの問題について聞きたいんです。


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芥:それは、自己の至上命令として自己の存在をすべての呪縛から空の空なる空へと解放する行為と、その場を発生させるときに死を遂行する場合も含みますが、可能です。それともう一つ、名前のない世界。要するに物質の側から見れば、人間がいくら名前をつけたって痛くも痒くもないわけで、物質が秘めている秘密の言語、秘密の真理というものには何の影響も与えない。ただ、例えばライオンに向かってライオンと名づけて安心できる。そして、ライオンというものをある程度、人間の時間の習俗、文化の部分に変えられる。名前がないということは──ライオンを殺しても生命のほうは、 要するにライオンとか ゴリラとか、一つのものが違った形であらわれてくるという存在の記憶は、全ゾーエーを発動している生命の実体は名前をつけても消えないわけです。それを利用し、日本民族の名付けえぬ全的生命体である国体を天皇と呼称する国家を捏造してしまった。

ところが物質のほうは、また違った言語構造を持っている。物質は、それがそれであるために一つの固有な言語構造を所有しているし、言語を発生させていると私は見てまして、すべての物質の生成と消滅に関わるいわば "天使の言語" であってそれは全宇宙に知として流用している一方、 "悪魔の言語" として貨幣があり人間の欲望とカルマから生じて人間にしか通用しない相対的価値の生産消費に関わっている。又、人間の秘かな、 "肉体の言語" は生きとし生けるものすべてに交流し通用しているし、言わずもがなですが人間の "言葉としての言語" は今、私がそうしているように人間の生者と死者を問わず交通させ時空を超えて意味を流通させるものですね。身体の歴史を探っていけば、一つの細胞空間にも宇宙的ドラマが言語として内胞され ているし、又、心的には身体空間の内部には猛獣もいれば猛禽類もいるわけですから、それらの猛獣性とか猛禽類の肉食性を全部まとめて天皇という一点で絶対化することももちろん可能です。 死の本能に向って死の裏側にへばりついているちっぽけな自己の秘密を後生大事にかかえてこのつらい生を生きるあるいは死を死んで行く三島さんのようにね。

でも、そういうことに僕らは飽きて、革命まで文学的に矮小化されることに飽きて、 原爆ですっ飛んだ後に出てきたっていうことを、だから、はっきりもう一度言いたい。物質がみずからの秘密を我々に指し示してみせた以上、それを我々が受け取って、我々の新しい未来へ向かって、そのみずからの精神を打ち立てる。だから、精神や自我を持たない人たちのために日本があり、日本語があるなら、さしあたって、そういうものが役に立たないところから始めた。だから、物質それ自体が放つ言語から始めようということ。

その言語の秘密とともに確かに物質には性質がある。三島さんにも性質がある。一つの性質が一つの身体をもったときに人間世界が始まる。性質っていうのは、 ドアも窓もない密室のようなもので、確かこれはある哲学者が言ったことですけれども、物質の世界から、そのドアや窓がみずから開いたときに、原爆 は生まれてくるわけですから、半分は象徴ですけど、半分は事実です。
そして、今日のネット社会では、情報が時間から解放されて無時間で活用できる。情報化されるためにすべて存在している。 光のスピードで人々はコミュニケーションができる。 光の中に時間はとりあえずまだない。タキオン、素粒子などはありますけれども。ですから、無時間と言ったときに、性質の無性質性 としての無時間、要するに密室の中の時間性とははっきり違った形で、私たちは空間と言いたいわけです。

要するに空という世界が仏教でありますね。無さえも存在しない。無はまだ人間から来ているからですね。人間の性質として無がある。でも無が普遍性をたずさえて内外を超えて、 空が 空を運動する全であり一であり一であり全である空となり空間となる。又、今日のように極めて抽象化された貨幣商品と、 人間と、物質、この三つの言語はその等価性において同質の運動をしている。が、それぞれ直接の接点は全くなく、当然ながら人間という場処、その身体と生命と脳空間でしか出会うことはない。ここに人間=商品という悪の三位一体的「魔術」が生じる。とりあえずここまで。

司会:ありがとうございます。 茶さんの言われる空間が何を意味するか、理解が深まりました。 この後、三島が天皇の話を少ししますので、芥さんはその時点では映らないかもしれませんが、それを聞いて、その後また芥さんが出ていらっしゃいますから、それを見て、それから全一 共闘との討論会の一番最後に、三島由紀夫がこの壇上を去って ゆく場面を見て、それでひとまずおしまいにしたいと思います。

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全共闘G:もし天皇、この人が皇后以外の女を見そめて抱きたいと思ったら彼はどうするべきか。ところが、もし抱きたいと思っても、今のような天皇のあり方じゃあ、おそらく制約されて抱けないんではないか。そうすると、人間天皇ってのはまことにかわいそうな存在であると。もし僕が、天皇を──太陽って表現するんですが──、とにかく何かすばらしいものだと見ようとしても、そこには欲求不満な惨めな肉体しか見出せないっていうことになるわけですよ。そういった天皇の存在について、あなたはどう思います?

三島:実はね・・・・・・

全共闘X:止めろよ───

三島:この天皇問題は少し長くてなりますよ、いいですか。

全共闘G:(会場に向かい)───俺が聞きたいんだよ!

三島:あのねえ、私は、 この今の陛下についても私は本当は後宮をお持ちになったほうがいいと思っているんです。 それでですね、これはだいたい私の天皇観というのは、 いわゆる右翼の儒教的天皇観と全然違うんですよ。それで 『古事記』をよく読まれるとわかると思うんですが、『古事紀』の下巻がね、仁徳天皇から始まっている。これは何を意味するかというと、仁徳天皇から儒教的天皇像っていうのが確立しちゃったわけだ。そしてね、「民のかまどは賑わいにけり」というような感じの天皇像が確立しちゃった。 これがずっとですね、教育勅語まで糸を引いてるわけですな。私は教育勅語におけるあの徳目をね、一番とにかく裏切ってるのが『古事記』における天皇だと思うんですよ。 「父母ニ考ニ兄弟ニ友ニ」と書いてあるけれども、『古事記』の天皇というのは兄弟が平気で殺し合うし、父母もちっとも尊敬してない。それから、不道徳の限りを尽くされている天皇もあるわけだ。

〔・・・・・・〕

三島:人間天皇というのは統治的天皇、権力形態としての天皇を意味しているわけです。

芥:それで、どうなんですか。 それで。

三島:だからですね、私は天皇というものに、昔の神ながらの天皇というものの一つの流れをもう一度再現したいと思ってるわけです。

芥:それと自己を一体化させたいというところに美を見出すわけ?

三島:あ、そうですね、ああ、そうですね。

芥:これは単なる一種のオナニズムだ、イマージュと自己の。事物に対して何らなすすべがないわけですわ。

三島:そうじゃなくてね、日本文化というものはだね、そういうものが……。

芥:あなたはだから、日本人であるという限界を超えることはできなくなってしまうということでしょう。

三島:できなくていいんだよ。

芥:あ、いいんですか。

三島:ああ、僕はね、日本人であって、日本人として生まれ、日本人として死んで、それでいいんだ。その限界を全然僕は抜けたいと思わない、僕自身。だから、まあ、あなたから見ればかわいそうだと思うだろうが。 芥:非常にそれは思いますね、僕なんかは。

全共闘Y:空想ですよ。

三島:しかしやっぱり僕は日本人である以上の、日本人以外のものでありたいと思わないんだな。

芥:しかし日本、日本人というのはどこに事物としてあるわけですか?

三島:事物としては外国に行けばわかりますよ。あなた、どんなにね、英語しゃべってると、自分は日本人じゃないような気がするんですね、 英語が多少うまくなると。 そして、道歩いてると、ショーウィンドウに姿が映ると、 このとおり胴長でね、そして、鼻もそう高くないし「あ、日本人が歩いてる。誰だろう」と思うと、てめえなんだな。これはどうしても外国へ行くと痛感することです。

芥:人間すら事物にまでいかない限り、無理ですよ。

三島:あ、その国籍を脱却することは?

芥:脱却というより、むしろ最初から国籍はないんであって。

三島:あなた、国籍がないわけだろう。あなたは自由人として僕は尊敬する。それでいいよねえ。だけども、僕はだね、国籍を持って日本人であることを自分で抜けられない。 これは僕、自分の宿命であると信じてます。

芥:それは一種の関係づけで、やられてるわけですね。

三島:そうそう、そうそう。

芥:当然、歴史にもやられちゃうわけだし。

三島:うん。やられちゃうというか、つまり歴史にやられたい。

芥:むしろ、いるということに。

三島:ああ、そういうことに喜びを感じるの。(会場笑)

芥:幻想の中で。

三島:幻想の中で。

全共闘Z:マゾヒズムだよね。

芥:だからこそ人殺しになったときから動き出すっていうわけでしょう。

三島:そういうわけですね。

芥:実際、動くかどうかはわからないけれども。

三島:それはわからんけれどもね、そういうふうな、つまり、精神構造になってしまったんだね。

芥:もう俺帰るわ。

三島:ア、ハハハ。

芥:退屈だから。ごめんね。じゃ、どうも。


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司会:これ、今ご覧になってどうですか?

芥:そんなに失礼だと僕は思わなかった。解放区のことですし、これから先は国体の生命共同体的不安定性や共同幻想としての絶対美についてや、 "死のお手本" としての特攻隊、二・二六のオマージュにもって行くことになる気がしたので、私はここで寸止めすることにしただけです。事物として "日本" と いうものは無いのです。自然の虚無と真空なのです。それへの不安や恐怖に何とか形を与えて生きているのが日本人です。 "猿" の話などではないのです。ともかく、他殺か自殺かということに一応答えをもらった私としては、この瞬間にお別れをすべきだったのです。 「日本が無ければ生きられない」という人間には「日本」という幻想が身体であり生命でもあり存在であるわけだから、絶対からみれば夢を夢みる存在として夢に生まれ生き、夢の中で死ぬ。夢が夢を生んで殺す文学的幻想の只中で死ぬという彼の精神構造を自白させたし、その彼の性質やモナドが生命を心的に屈折させバロックさせ、屈折をさらにバロックさせ屈折させつづけて存在から浮上してくる暗黒物質のようなものを、三島は天皇と呼んで死のリアリティをつくろうとしていたのでしょう。

それに僕だって、現実問題として、あのとき本当に忙しかったのです。乳飲み子を抱えて大変だった時間なんだけど、全共闘Aの木村修君たちがどうしても来てくれ、来てくれと言うので、急いで駆けつけて。そのときに、僕の妻は木村君たちと、この会場の設営とかをやって、一人、人間を送っているし、「解放区大学」のコンセプトは当時の私の劇場論として作ってあげたのだからもう、私はいいだろう────と。

ちょうど一ヶ月後ぐらいに東京体育館を借りきって、『空間都市』というのをやるので、その台本を子どもをあやしながら書いていたときで、この台本には三島さんが『憂国』の映像をバックにして実際に 『太陽と鉄』をトラックの上で叫んでいるというシーンも出てくるのですが、ちょっと忙しくて書きかけの台本にもどりたかったのです。

カルチェラタンの中で、みずから自主的に主体的な大学を開始しようというアイデアに彼等が乗ってきた。そして、木村君たちの構造改革派というのは、ちょうどマルクスは明治維新のころの人間で、それから百年近く経っているのだから、その百年間という批判を経た上で、オカルト的で感情的なプロレタリア独裁とか、教条的な部分とか何とかを消却して、 今日的な純粋なマルクスを考えよう、みたいなところの一派で、わりとソフトな連中です。だから、こういうこともできたわけですが。

さて本題です。それで、 三島さんは楯の会をつくって 「我々は殺人を厭わない。むしろ文化防衛のためには殺人を肯定する」と言って、 それも一人ではなくて集団で活動し始めたということは、いくら僕らの影響があったとしての反革命でも、 僕らの手法を奪い取って暗黒の中に投げ捨てようとする彼の悪しき性癖からみても、これは聞き捨てならないので、いつか呼んで話してみよう、みたいなことは思っていました。 そんなときに、彼は本郷のほうの連中に会いに行って、けんもほろろに追い返されて、そのときにちょっと本郷の連中もいかんなと思った。市民が会話したいと言ってきたときに会話を拒否するのは、だいたい解放区のルールでも誇りでもないし、 知性でもないから、では、もし話があるなら、我々が本当に呼ぼうということで、三島さんに、我々の記念すべき自主大学の第一回目の講師として来ていただいたわけです。

それで、私の聞きたいことは、なぜ自ら創造した美と一体化する自殺でなく、文化のための他殺なのか、なぜ殺人を厭わないのか。要するに殺人というのは権力と権力の衝突ですから、 相手の存在を抹殺する、そんな正しさを一体、人間はどこから手に入れるのか。その辺を聞きたいということです。

左翼主義者たちの殺人に対しても同様に私たちは闘ってきたわけで。「私たち」と言っていいのか、「私は」と言うべきか。 要する国家を革命したかったら、まず最初にやることがある。 それは自分の身体をまず革命すること。馬鹿なお役所の権力主義者には決してならないという、倫理的な実存を身体化するこ と。お役所独裁主義として、 ソビエトはすでに崩壊していたわけです。その昔に共産主義の思想がスターリン達に殺されどこかへすっ飛んでいたようにね。

これは私だけじゃなくて演劇人の願いで、身体を超える宇宙は差し当たって無いぐらいのところから始めるということでしたけれども。だから、殺人をしない、殺人を否定する、殺人を正当化する正義はどこにもないところからもう一度始めるということです。だから、空間と言う。時間とは言わない。 時間は持続しようとするエゴイズムと一緒になって、時間でない、全く悪しき、悪の持続に変わるからです。人間の身体はそうできているんだから、しょうがない。

そこで彼に聞いたわけです。要するに、虚無と真空の中で性欲崇拝・性器崇拝を文化の原点にしている日本や日本語がなければ存在しない人間は彼で、───彼は、最初に言っていますね。 それと、日本人という限界を超える気は全くない。「日本に殺られたい」と。でも殺人者として動き出す。それは日本という負の空間、時間の中に違う時間が介入した時、その時間を抹殺するということでしょう。自然生成的なすべてが神の息吹を呼吸している有機的生命文化を、死者達の死を呼吸している負の国家にもう一度返還要求し、それを叫びながら自らの悲鳴を思想と入れ換えるべく行動する。自己を零とし国家を零とし、すべてを零とする一点を彼は存在と引き換えに手に入れたかったのでしょう。たしかに左翼の学生達の中に三島的事物の残酷さや無慈悲さに悪影響を受けて殺人する「赤軍派」が生じてしまった。このことは今でも残念でならない。国家側の思うつぼになった。

でも、実際に殺人者として動き始めたときに、誰を彼が殺すか。彼の作品を見ていると、天皇を殺す以外に方法はないわけです。自分の本能を抹殺して、聖性がそこにやってきたら、その聖性に基づいて殺人を正当化することはできるかもしれない。でも、それは日本という限界を超えた聖性になると思います。 それならば、愛が持つ聖性から新しい生命が新しい自然として生まれて、その新しい生命が持つ聖性にみずからを賭けてみようとした私がいたということを、目の前で見せびらかしたわけです、赤ちゃんを。それは、三島さんにとって天皇に値するものは、僕にとってはこの赤ちゃんですよという意味でもありました。そしてそのとき最終章で「聡子」はさながら原爆として、すべての外部を内在させた全き無時間としてそこに立っています。そういうことです。

(拍手)


司会:時間の問題にしろ、空間の問題にしろ、先ほどの平野さんの話ともつながって、いろんな論点が既に出揃っているわけですが、今日三島シンポジウムが始まって、これから二日目、 三日目と続くわけなので、全てをこれから我々が引き受けて、 恥ずかしいことのないように展開をしていきたい。最後に、三島由紀夫がこの場を去るところを見たいと思います。

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三島:今、天皇っていう言葉を口にしただけで共闘すると言った。これは言霊というものの働きだと思うんですね。 それで、天皇という言葉を口にするだに汚らわしかったらば、この二時間のシンポジウムの間に、あんなに大勢の人間が、たとえ悪口にしろ、天皇なんてたくさん言ったはずがない。言葉は言葉を呼んで、翼を持って、この部屋の中を飛び回ったんです。この言霊がどこかに、どんなふうに残るか知りませんけれども、 その言葉を、 言霊を私はここにとにかく残して去っていくんで、これも問題提起に過ぎない。私は、諸君の熱情は信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということをわかっていただきたい。

全共闘G:それで共闘するんですか? しないんですか?

三島:今のは一つの詭弁的な誘いでありまして、非常に誘惑的であったけれども、私は共闘を拒否します。
    
 

(拍手)


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司会:ありがとうございました。時間になってしまいましたので、ひとまずここで終わりたいと思います。

芥:ちょっといいですか。今の映像中の三島氏の「言霊の発言」で、一括りにする終わり方は、開かれた「知」の現場であったここ東大九◯◯番教室にはふさわしくない気がします。で、一言私からも付け加えたいと思います。

まず "言霊" 、これは単に "脳髄の衰弱" から生じるにすぎません。捨てゼリフなのでしょうが、この解放区空間で言霊を語る三島氏も少々眉唾ものでした。言いつつ何かが揺るぎ、その存在が嘘っぽくすらある。自分でもはっきり信じている訳でもなさそうで、幽玄なる力もない。少々負け惜しみを隠そうとしているふうに聞こえます。あの維摩経の宇宙大に拡大する小部屋も、シャカと弟子達の言論過満巻くが、言霊などではないのです、明噺なる脳髄の解放区でした。

それに、武士もののふたるもの、頭蓋骨の天中から骨盤の中心を白刃がピンと本通ってなくてはならない。飛び交う言霊などに心が惑わされるものでなく、正中線は氷柱の如くに──である。 もし生のすべてを否定する力、とくに文学のわいせつな生理的感傷の否定を自らに求めるなら、すべての地平に平然と自らを平機してなくてはならない。現に彼は "新しい事物とそれらが放つ無時間性の空間、この解放区" に、私達の招きで立ち、武士として息し、存在していたのです。

あのときここは、すべての "因果律" を白紙還元する "無時間性の空間" です。そこは存在それ自体をもって、そこに現前するすべてに対処する「ステージ」です。世界中パリ、ニューヨーク、ベルリンなど、同時多発的に発生している「ステージ」でした。核爆発の連鎖反応のそれのようにです。物質の秘密が、新しい言語として世界に誕生した "世紀的な瞬間" なのです。もちろんその原型はアラモゴルドや広島・長崎で炸裂したアインシュタイン力学のイデーの「火」です。新しい「火」 から声がします。 "すべて清々しく新しくせよ" です。私達と解放区の無時間性の只中での出会いとなって、三島氏の存在概念 体系を破壊しました。言霊などではありません。このときの破壊がモメントとなり "月修寺という解放区" を彼は生み、一年五カ月の深まりの中で、ただの小悪魔でしかなかった「聡子」 が、無時間性の中心にある "因果律不在の敷居" として誕生したのです。すべての次元を移し変えるエネルギーとともに新しい事物が出現しました。ここで主客が転倒しました。"劇" が成立しました。

天皇の消滅と同時に国家権力の立入り不可となったここ "東大全共闘の解放区劇場" は、三島氏の嫉妬と模倣を煽ったのもむべなるかなですが、重要なのは、オッペンハイマーの「アラモゴルド」・天皇の「広島・長崎」・三島氏の "月修寺の「聡子」" ・無時間性の砂漠としての "全共闘C君達の解放区" これらは直線的に一つの曲面上にあるということです。

その曲面こそ、かつての共産圏が、天皇のそれのように消減したあと、 "エントロピーが増大する爆発宇宙" と結託した世界資本主義空間の過剰消費の現実が、描いている奇妙な曲面なのです。このすみずみまで貨幣の等価性によって支配された膨張する商品宇宙の力系との闘いのはじまり。それは左右の差異は あれど「アメリカ・天皇・自民党」に対する反=権力として立ち、(彼がサンセバスチャンになるためであったにせよ)私達も三島氏も闘いの同一性は持っていたのです。そして、「スターリン」と無慈悲さを競争するかのようにこの一年五カ月後に日本 原理主義者として「この男」はすべてを信じず、すべてを裏切る「屠殺される生贄」としてすべての言霊がする地平に走っていきます。こうして彼は非在の深まりの中で、一つの衝撃として無時間性の「聡子」を発現させ、その形而上性を転倒する形而下的衝撃として "天皇殺害の意図" を秘めた "市ヶ谷のステージでの悪徳の自己殺害" を発生させました。それは彼の実存の下での、二十五年後の「終戦」であり、原爆の炸裂でありました。八・一五の構造がそうなっています。 "全因果律あるいは 日本民族のカルマ" の中心たる、絶対無あるいは絶対美としての「天皇」の "消滅" 、それはそのまま「聡子」の "出現" であり、 「原爆」の "出現" でした。「ジェノサイドとしてのヒロシマ」 の "出現" だったのです。そして騙すかぎり騙しつづける最終因果としての自決をもって、日本文学史そのものの欺瞞の時間を切断します。彼にとってそれは身体切断と同時でなければならない。私達の言う「愛の同時刻圏」と負の側で極めて近いものでした。

彼の幸せは、生きることの終わりと文学の終わりを同時に迎えるか、自己殺害することにあったのでしょう。日本権力に殺害された大杉栄、姦通罪に問われかけた有島武郎の心中、芥川龍之介と、太宰治の自殺、これら文壇に捧げられた四つの死体、四つの悲劇的花束を一拠にまとめて廃棄し、灰にし、血だらけにし、怠情な文壇の転覆を図らねばならなかった。私達が東大を解放したように。こうしてこそ彼のディオニュソス遊戯、及びナルシシズム演戯が、 ───贋物の天皇と偽物の革命家が過不足無くエロス=タナトスとして満たされるためにこそ自らを生賛にして、その人工的合一を人工的真空、その血しぶきあげる人工的カマイタチをもって俗物家集団達に襲いかかった。もちろん自分もその俗物の一人だったことをひどく恥じ入ったわけだ。自らを神にしてみせようとする愚行権の発揮で ある。「作家は行動しない、直面し行為する」のであった。「聡子」の「無時間としての同時刻圏」の発生である。だが実際は、自己の種の廃嫡と人生の敗北を、自らの廃棄すべき身体の、残酷な人工的処置によって、勝利のスペクタクル化をもって恥知らずな資本主義マーケットに、秘義的参入したと言えます。

この正直な行動を政治利用するのは、政治家以下の卑怯者達か、才能のない文化人のやる事だ。だが予想通りそうなった。 自我形成不全で知の蓄積もなく、商品と貨幣がもたらす自己の不在を日本・日本人・皇室・天皇・祖霊・言霊、これら不可知なオカルト美学で代用する政治=宗教の組織はのさばって政権をコントロールしつつ呑み込んでいる。左翼革命はかつての正義の無時間を失った。実際に文学は自らの真空を失い、三島氏の流した地の中で文学者達は皆溺死したのだ(中上健次を少しく例外として)。

「 "私達は、市ヶ谷の谷底に身をかがめ、風に身をよじりながら、その血を呑みに降りて行きました。でも、そこにあったのはあなたのではなく、私達の顔と血でした。私達は自分の顔を映したその血を、手で掬い呑んだのですよ。 "したがって" 器官無き身体と無時間を誤解した連合赤軍" の彼らも、その二十 年後の "全く病的な言霊支配されたオウム事件の彼ら" もあな たの捏造したルサンチマンの絶対的正当化が招いた悪の受胎でした」

さて本題に戻りましょう。
「第二次世界大戦」という黙示録的世界劇がなければ私達と三島氏が議論することもなかったのです。当たり前ですがあの一大黙示録、言わずもがなですが、黙示録というのは世界の存在の次元がある次元から他の次元に移行することで、息継ぎせずに一息で進行する変化の間に、すべての人間の地獄を、その剥き出しの形で人間が体験することでもあるのですが、オッペンハイマーが一九四五年七十六日、世界初の原爆実験に成功し たときのことをこう述べています。

「笑う者泣く者もなく、皆押し黙っていました。世界は今までと全く別のものになってしまいました。このとき私の心に『パガヴァッド・ギーター』の一節が浮かんできました。 "汝のなすべきことのみをせよ" とヴィシュヌ神は王子に語るやいなや、無数の手を持つ怪物に変身し警告を発した。 "今、余は死神となり、破壊を導くものにならん! 千の太陽が一時に天空に煌き出ることあれば、そは荘厳な者の光輝に似ん。余は世界を滅亡させる時間となり、今、全的破滅に向って活動を開始した" 」

こうしてアインシュタイン宇宙から「物質の新しい言語」が爆発宇宙の中で「天使の言語」として誕生し、世界資本主義空間の「貨幣の言語」と相互関連して、今日の商品のスペクタクル宇宙を算出し、イブの食べたリンゴのように、過剰消費経済空間として不断に自己増殖する正に「悪魔の言語」として大渦 となっています。一方ゾーエー達の生命体宇宙で「肉体の言語」の交流する古代の言霊文化や、それに先んじて生きとし生けるものことごとく文字なく縫い会う無意識世界の織りものとしての複合大宇宙が生命発生以来つづいているわけだし、それは沈黙の中でささやかれ合う豊穣なるパロール世界だったわけだけれど、文字の誕生とともに「人間の言語」が出現し生死を交流させて、境界をみえなくする魔術を産出する、かくして世界の裏表が生まれ自然に対する悪の観念の発生が起こる。殺害された自然から文字と観念が生じ、隠された精神の歴史が始まる。そして「性欲」宇宙が存在のエクスタシー・エネルギーとなって、それぞれのエクスタシーの強度をもって、この四つの次元の違う「言語」を、人間という存在空間で同時に活動させ複合させている!

もはや所有することも放棄することもできないそこで、マザコンの首相は「母性文化というファシズム」を、つくることにしたらしい。ここは出口もなく入口もない。生も死もない商品か否かなのだ。商品は夢を生産し夢を殺しているのだ。すべての自然は貨幣換算され等価交換され、エントロピーが増大しつつ破壊されていく。

で、三島氏は強引に俗物としての自己放棄を企てて実行した。 現実は紙クズ世界にすぎない。幻想宇宙の幻でしかない自分を生きねばならなくなる、商品として生まれ商品として死ぬ売文業者としての生だ。デパートの中で自分を四つの流れとして展 示しているのだから。彼が希求している絶対存在から見れば生 とはそういう幻なのだから、幻は原稿用紙の中でさえ生きられる。その生死の逸巡のいくつもが、あのおかしな俗物のニヒリストの『豊鏡の海』となる。

それにしても、今日のオイコノミアの不可能性に対しては生の原理も死の原理もなしくずしに、生産と消費の原理にされていくのだ。世界経済空間を一つのものとしている「貨幣の言語」は、爆発宇宙をドーム状にして閉じ込め、 "悪魔の言語と天使の言語" の一体化を商品として成立させてしまった。私達のこの世界資本主義空間は、一体いかなる "オイコノミアのルール" をその内部にあるいは外部にもっているのか? 世界は再度閉じ込めの器と化しつつあるし、悪名高い収容所化しつつある。「 ジェノサイド」を見えなくするエクスタシーと夢の自己増殖が日々増産され、その霧の中に人類は地球ごと収容され、 肉体から重力と恩寵が消え、酸素が薄いけれど真の真空は無い、薄い膜のような肉体に覆われて、脳は機械に代行されて衰弱を忘れ、溢れる商品と幸福が美しい国ニッポンとして売られている。どこにでも皆殺し用の天使達が飛んでいるというのに。これこそ神無き中世の「バラの不快」です。今こそ「詩」が必要 なのだ。身体を革命する「詩」、身体を出口とする劇場、身体 を入口とする劇場。そこでこそ人間がふたたび人間を見ることができる場所! 火から声を聞く人間という場所の創造! 完全なる死に包まれてこそ輝く生と人生の放射する言語! 人間の人間による人間の為の新しい言語空間の発現が死の中心に必要だ。

さて、この地球という建造物の中で、世界経済はそこに棲まう人類と地球をバリバリと醤り喰いつづけている 「リヴァイアサン」という怪物を飼っている。彼は、自らのスペクタクル劇場で大量の商品排泄を命じられている。そのため日々すべてを食べるのだ。食べられるとすべては「価値」と名付けられる商品になる。それは自己愛のスペクタクルに変貌する。目まぐるしくそれはスペクタクル化し、連続上演される薄気味悪い 「世界劇場」に私達は居る。スペクタクル商品の販売促進、管理流通、新しい価値の生産、消費。ナルシシズムの快感を宣伝販売するマーケットの誘因力増進のために、芸術家は全才能の発揮を求められる。

「商品・価値・貨幣」の三位一体が世界を世界たらしめていると、人々は口々に叫ぶ。首相までもが! しかしここで我々は考えねばならない。豊かさが世界を変えるなら、貧しさはそれ以上に世界を完成させるだろう。かつてアッシジのフランチェスコが赤い石をキアラに与え、愛の同時刻圏を示したように、もう一度平凡な足もとの商品価値ゼロの石塊を見る眼の感性を 磨くのだ。さすればいかに平凡な事物達も、宮殿の輝きをもっ て汝を迎え入れる「ドア」であることに気がつくだろう。かつ て『ドアーズ』というバンドが誕生した。あのジム・モリソンの伝説を思い出すがいいのだ。

身体は平凡ではあるが、正に宮殿の入口であり、出口なのだから。そして誰でも生命の裡に燃えているその「火」の中から自らの「声」を聴くことができるのだから。身体こそその場処なのだから───。

A・アルトーはかく言う、「私は、私の父。私の母。私の息子。そして私は私自身だ」と。これこそ身体=劇場となった男の正しい姿だ。これ以上の残酷は残念ながら世界になく、 三島氏にもない。 "留魂" など女々しくおこがましくさえある。 したがって今あるのはふたたび四十五年前と同じく、「原爆の恍惚・水爆の冷静・地球の衰退」である。そして私の声の中の 「火」であり、「火」の中の声である。私を誕生させたこの私の大気である。

そして私達はいつも「n-1 対 1」というステージのエッジラインに立ち、己が眼光を最終光源として眼前を見続ける覚醒と緊張の夜を生きることになります。

そして光溢れ、世界がふたたび、白紙のまま浮上し、万物が自らの詩を奏で、万人がそれらを描き、歌い、書き記す、そのステージを朝とともに私達は迎えます。もしかして "この惑星を最初から創り直すより、もっと永い時間がかかるかも知れない" けれども。
以上です。 今日は、最後まで私の話をお聞きいただいて恐縮です。ありがとうございました。

     

(拍手)





『混沌と抗戦──三島由紀夫と日本、そして世界』井上隆史・久保田裕子・田尻芳樹・福田大輔・山中剛史編 水声社刊、2016年pp.63~83 より