森田潤 元旦に孤高のノイズ24時間耐久ライヴ・ストリーミング



森田潤24hに捧げる46小節

市田良彦

§1.
大作曲家ジャン=フィリップ・ラモーの甥は、ひょっとすると18世紀フランスに転生した森田潤その人だったのでないか。叔父と同じように音楽家であったものの、叔父ほどパッとせず、それどころか数々の奇矯な振る舞いにより、作品ではなく逸話を残した甥ラモーは、森田潤だったのでは?

§2.
私は聴いたことがない。浮浪者や泥棒たちと一緒くたに「一般施療院」という名の監獄に閉じ込められてもおかしくなかった、狂った音楽家ジャン=フランソワ・ラモーの「作品」を。それでも、彼の曲はまだはじまっていない「森田潤24h」のようだったろうと思いたくなる。甥ラモーが作品を残さなかったのは、その音楽もまた音を踏み外し、歪んだ引用に満ち溢れ、そこに「作曲家」の痕跡を認めることが困難であったからかもしれない、と。私はすでに彼らの音を「聴いて」いる。

§3.
ノイズ・ミュージックは、「作品の不在」としての狂気を地で行く。それはいつも「かつてなかった」と「まだない」の間に「ある」。だが「わしという人間がいなくなったら、あの人たち、どうするんでしょう。犬みたいに退屈しますよ」(ドゥニ・ディドロ『ラモーの甥』)。

§4.
19世紀になると哲学者ヘーゲルが、甥ラモーを主人公とする小説を絶賛する。一見したところ、王の傍にいて傍若無人な振る舞いにより王と宮廷人を楽しませた中世の道化のようでありながら、自身の狂気により啓蒙の真実を、その空虚さを暴いていった甥ラモーと、理性的とされる人々の間で交わされる会話に、大哲学者は「人間」の真実を見た。

§5.
ヘーゲル曰く、彼らの「対話」にこそ人間の本質がある。狂気とは非理性ではなく、理性そのものの中に潜む乱調であり、人間はそもそも狂気と理性の間に住んでいる。それこそが「対話する人間 homo dialecticus」の真実であり、甥ラモーは、この真実を我々に見せてくれる鏡だ! 狂人は塀の向こうから解放されねばならない。我々は狂気の発する声、モジュラー・シンセの音の洪水に耳を傾け、身体を任せねばならない。我らのゴドーを待ちながら。しかし──

§6.
とうの昔にパスカルが言っていた。「人間が狂っているのは必然であるので、狂っていないことは別の仕方で狂っていることだろう」。

§7.
なるほどノイズ・ミュージックの歴史は狂気の歴史を分かりやすく例証している。森田に先立ち、自らをアントナン・アルトーに擬えたパンクもいた。なかには本当に狂ってしまったミュージシャンもいた。

§8.
歴史は教えてくれる。近代において、狂人たちは監獄から解放されて病院に送られる。彼らはもはや鎖に繋がれず、庭を自由に歩き回ることもできる「保護施設」(アジール)に収容される。狂気は「病気」になる。狂人は薬と環境と訓練によって、やがて「治る」はずの、社会のなかでそれなりに生きていけるはずの存在になる。

§9.
理性の乱調は「真理の真理」として持ち上げられる一方、「生暖かい水族館」のなかで静かに観察されるべき事象=症例(ケース)になる。我々は今や誰もがいつなんどき激烈に発症するかもしれない潜在的病人である。生きるということは、自己の内部に潜む病=狂気をコントロールすること。レコードに収納された「管理された偶然」に耳を澄ませ、破綻を享楽しながら危うい「距離」を生きよ。自らの症状と共存せよ。とはいえ──

§10.
「わしらがちょっと気の利いたことを言っても、それは偶然なんだよ。気違いや哲学者どもと同じさ」(『ラモーの甥』)。

§11.
音の世界を一歩離れれば、そんな狂気は消滅してしまったのではないか。それを消滅させることが近代から現代に向かう医学が自らに課してきた役割ではなかったか。「自閉症」はもはや「幼児精神病」ではない。同性愛はとうの昔に疾患リストから外されている。精神の「病」の大部分が脳の生理学的であったり遺伝的であったりする「障がい」に置き換えられた。

§12.
もはや「責任能力」の一点のみがかつての狂人を獄舎から病院に移す。しかしこの能力を判定するのは今や最終的に裁判官であって医者ではない。医学は法律に「負け」た。薬の投与は「治療」を目的とするというより、「患者」を社会的におとなしくさせておくツールだということを、今では誰でも知っている。鬱病程度なら薬さえ不要かもしれず、認知行動療法──「治療」なのか「訓練」なのか──で「なんとかなる」かもしれない、と。

§13.
狂気の消滅はノイズからかつての破壊力を奪ってしまったろう。それは音楽を取り巻く強力で広大な「外」の位置から、ダラダラと無限定に伸びるスペクトラム中のある「一帯」に席を移した。

§14.
1970年代の終わりであったか、「スペクトラム」という名のフュージョン・バンドが出現したのは。今日のノイズ・ミュージックはむしろ「自閉スペクトラム症」の暗喩的化身として「ヴェニュー」の中から発せられる。そこはまるでクロスフィットネスのBoxだ。引きこもるゴミ屋敷というより、誰もが一度は入ってみるべき道徳的鍛錬の部屋。森田潤は轟音と戯れる術を教える身体トレーナー。あるいは──

§15.
彼は、我々の身代わり、我々の代表として施設に入所してくれる触法精神病者なのか? いずれにしても健康なリスナーは、彼のおかげで狂気が消えた社会を生き延びることができる。私のいる部屋はあそこと電波によって隔てられ、かつ繋がっている。この距離のなかに森田も我々も住んでいる。

§16.
「言葉は存在の棲家である」(ハイデッガー)。「存在」すなわち「狂気」の。「言葉」and/or「音楽」は。

§17.
狂気消滅後の我々の棲家を指し示す機能を持っていたのは、20世紀前半にはもっぱら文学だったろう。狂気が消え、同時に人間なるものまで終わった後に「我々の言語活動の土壌」となるのはルーセルであり、アルトーである、とフーコーは1964年に語った。たしかに彼らの文学は自閉的であったろう──分裂症的である以前に。そこでは──

§18.
発せられた言葉を理解可能にするコードが、その言葉の中にしかない。彼らの言葉は、他者に共有された文法を支えや前提にするどころか、自らの内部から全く個的な解読格子を生み続ける。そのワンセットが手に入ったところで、それもまた解釈を強いる言葉の群れにすぎない。ゆえに読者はつねに「私は嘘つきである」と言われているようなもの。隠された真実を明かすことと騙すことの区別が無効にされている。

§19.
だからこそ、狂気の文学は何も語らない。語ることが語る主体から他者へ向けてのメッセージ送信であるかぎり。何も語らないからこそ、それは「作品」をなさない。「作品」をなさないから、語る主体は「作家」ではない。「誰が語ろうとよいではないか」(サミュエル・ベケット)。だが──

§20.
狂気の文学はついに未来の言語にはならなかった。狂人が病人であることを止めた後、文学そのものが言語活動の母体ではなくなってしまった。狂気の言葉を発し、言語活動を刷新し続ける「人間」の営為は終わった。今日、「誰が語ろうとよいではないか」とは文学ならぬ5chのスローガンだ。そこでは誰が語ろうとまさに「自演乙」。誰の「自演」? 破片の群れと化した「我々」のだ。匿名での呟きなど誰でもtwitterでやっている。Qアノンの信奉者は「嘘」にこそ「真実」を発見して増殖し続ける。彼らは21世紀の反動貴族。

§21.
だが森田潤のような特異な人しかノイズ・ミュージックはやらない。そこに足を踏み入れるや、匿名性の陰に隠れるどころか、作家性の不在をこれでもかと晒すほかない。こいつはいったい誰なのだ? 誰が「パフォーム」しているのだ? 健全なリスナーは言葉を失くす。よかったよ、と事後的に励ますぐらいが席のやま。

§22.
狂気の「言語」の戦線が、文学から音楽に移動したのだろうか。音楽は言語活動の新たな形態なのだろうか。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。森田潤は大作曲家の甥が告げた近代の開始時点に戻っているのだから。音楽はいつだって、言葉がそこから生まれる沈黙だったのだ。生まれた言語から見れば狂っている言語の母体。しかし──

§23.
「ノイズ=カオス」から「音楽=秩序=言語」が生成されるのではない。モジュラー・シンセはジェネレーターではない。「音楽=沈黙」と「言語」の非時間的関係が、時間のなかにはつねに「ある」。時間の凹みのように。轟音は、「沈黙である/聞こえない」ことも、「雄弁である/メロディアスに聞こえる」こともある。意味のある言葉がノイズであることもある。この凹み、非時間的関係を、あなたは聞いている/読んでいる/見ている。

§24.
これは会話なのか? 森田潤とシンセと私、あなた、どこかで何かを操作しているであろう佐藤薫の間で交わされるお喋りなのか? もっと後ろにいるらしい芥正彦はいったい何をしている? さらに後ろから、かつてこのスタジオにいた阿部薫は何を語っている?

§25.
「24時間、365日、ライブを演るべきだ!」

§26.
邪魔だ。名前が邪魔だ。音楽であれ言語であれ、その自由な交換と流通に名前が歯止めをかけている。どんな「意味」なのかはともかく、名前が「意味」の増殖にブレーキをかけている。各人が人格を失い、別人にならないよう。誰も凹みにはまらないよう、誰にも狂った沈黙に帰らせないよう、誰も死なせないよう。

§27.
阿部薫と高柳昌行のセッションのとき、名前はまだ会話の邪魔をしなかった。それは「解体的交感」にフィクショナルな空間──阿部・高柳著「なしくずしの死」?──を設営する役目をしてくれた。言葉を「外」に向かって延ばす転換子shifterの役目を。私を彼(ら)に折り重ねる襞の役目。私たちは書物のような「盤」に封じ込まれた会話を楽しむ「観客」でいられた。私たちは生暖かい水族館の中を歩く「医者」のようでありえた。

§28.
だが今や、名前こそがノイズを生む。そこのおまえ、いい加減黙れ、解説はもういい、出て行けと私に言いたいであろうあなたもまた、ミュージック生成の立役者だ。私は言う──それが嫌ならあなたこそ出て行け。私たちは森田潤が設計した「〈構造〉を聴取している」(ブーレーズ)のではない。森田は語っているのではない。

§29.
開演を待ちながら、私たちは今「夢」を見ている。誰かが言っていた──「眠り、automatisme、非意志的なものの視点からこそ、目覚めた状態で世界を知覚する人間の心理学を作ることができる」。この「心理学」を私たちは作り直している。脳科学にも生理学にも、この経験を譲り渡すな。一人でしか夢を見ることができないなど誰が決めた? 街頭反乱の現場で、私たちは他人の夢を私の夢としていたではないか。「突っ込め!」

§30.
スタジオはむしろ「世田谷一家殺害事件」の現場だ。EP-4がかつてジャケット写真に選んだ「金属バット殺人事件」の家ではない。あのとき「犯人」は分かっていた。名前を持つ少年だった。しかし今、殺人者は顔のない絵だけを残し、消えた。「犯人A」としてこの場にいる。私たちの名前は私たちを、殺されていたかもしれない人間にする。そんな夢を見せる。

§31.

狂った殺人者が姿を消したあとに、ウイルスが来訪した。我々は「狂人かもしれない」の代わりに「感染者かもしれない」になった。しかし、「アジール」が解体されても道徳的「個人」には閉じ込められ続ける。自粛あるいは自閉する個体に。だがウイルスは語らず、歌わない。新たに壁を作るのみ。見えない動的な壁を。社会が「一般施療院」になった。 ──

§32.
あるいは「中国の不思議な役人」の舞台なのか。窓辺に佇み微笑む美少女・森田潤が私たちを誘惑している。私たちは自分が宦官であることを忘れ、部屋に上がる。だがこれは美人局。しばし少女の踊りを楽しみ、果てようもない興奮に身悶えしている。すると──

§33.
隠れていた悪党たちが現れ、私を押さえ込む。私は三度殺されるがその度に生き返る。憐れに思った少女の胸に抱かれ、私は、来ないはずの絶頂の訪れとともに、傷口からようやく血を流し始めて息絶える。台本レンジェル・メニヘート、作曲バルトーク・ベーラのグロテスク・パントマイム。

§34.
ディスプレイが私たちを去勢してしまった。しかし音楽がそれを忘れさせ、私たちは踊る森田潤を追いかけ回す。不能を忘れた罰に悪党どもの餌食となるが、死と引き換えに、ありえないはずの成就を得る。映像と音楽からなる美人局。私たちは24時間死ねない。

§35.
またあるいは、ここはエデンの園か。アウグスティヌスがそこでの性交の仕方に思いをめぐらせた、堕罪前の人が住む世界。アダムとイブは快楽も欲望もなしに、どうやって神の命令──「生めよ、殖えよ」──を実行できたのか。

§36.
意志により、である。アダムはファルスに「勃て」と命じ、それをイブの膣口にあてがい、挿入することなく、膜に開いた穴から子種を彼女に渡した。

§37.
アダムが森田潤、私たちがイブ、ディスプレイとスピーカーが処女膜の「穴」。COVID-19を神の罰のごとくに捉えれば、完全に無菌の音と映像の空間は、我々の性行為から快楽と欲望を奪ってしまう。不意の勃起や肝心な瞬間のインポテンツがそんなに怖いのか。確かにそれは精神に対する肉体の反乱なのだが。

§38.
BLACK LIVES MATTER:トランプ率いる白人警察官に殺されるより、感染リスクを犯してでも街頭に出よう。それを支持できる者だけが、エデンの園でも聖なる行為から快楽を得る資格を持つ。意志的な非意志、非意志的な意志をただ肯定する権利を。音楽に身を任せる能力を。

§39.
とある定義
• 人には制御できない身体の物理的振動
• 意に反して快楽に「持っていかれる」魂の動揺
• それを死に接近させるような思惟の最終的消滅

§40.
ギリシャ以来キリスト教にまで受け継がれた「性的絶頂」の定義である。ベートーベンの交響曲第9番のクライマックスの描写であってもおかしくない。ノイズ・ミュージックは最初から最後まで、この状態の持続を目指していたかに見える。では今は??

§41.
ギリシャ人はこの「痙攣性ブロック」を操ろうとした。過剰を抑え、使用法を考えようとした。キリスト者はそこに罪の証と罰の両方を見た。「痙攣」は神に対する罪である。そんなものを味わうことが罰である。すなわち罪を犯すという罰。では今は??

§42.
まだ来ない音楽に耳を傾けている。それをすでに目撃している。これを読んでいる。私たちの「自己」に関係している。関係して、どうしようというのだ??──「気分はもう戦争3(だったかもしれない)」。

§43.
「むろん、あなたの言う乞食たちのパントマイムなるものは、地球が体を揺すって踊っているのさ」(『ラモーの甥』)。

§44.
我々は〈言葉=音楽〉を一から学びはじめたところである。

§45.
「2005年11月のある日──よく覚えているが土曜日だった──、ぼくの人生は根本から変わってしまった。あの瞬間をどう定義してよいか分からない。分かりやすく卒中(アクシデント)と呼んでもいい。そう呼ぶとして、卒中はいくつもの顔をもっている。それはまず革命である。言語に対するぼくの関係を振り出しに戻してしまった。ぼくにはまだ動詞を活用させることがうまくできない。そのため、これからの話は主として現在形で書かれることになるだろう」(フランソワ・マトゥロン『もはや書けなかった男』)。

§46.
The End. むろん、とりあえず。2021年1月1日を待つ。

市田良彦:思想史・神戸大学国際文化学研究科教授

著書に、『闘争の思考』(平凡社 1993年)・『ランシエール 新<音楽の哲学>』(白水社 2007年)・『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(平凡社新書 2012年)・『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(岩波新書 2018年)──など。ほかに共著書/訳書など多数。


『φononの2018年活動報告と提言・〈わたしたちの音〉をめぐる manifesto』