作品

シンポジウム 革命としての演劇『劇と劇的なるもの』

地下演劇 no.1、1969年5月1日
参加者:原広司(建築家)+中平卓馬(写真家)+磯田光一(文芸評論家)+渡辺昭義(東大共闘会議)+芥正彦(演出家)+黒木和雄(映画監督)+寺山修司(詩人)


劇的の規定───劇場と大学

寺山 僕は去年ニューヨークへ行っていました……。ニューヨークへ行く前は、現実がつまらない所ほど演劇はおもしろいんじゃないかと思っていた。だからニューヨークみたいに、現実が煮つまって、面白くてしようのない所ってのはたぶん演劇はつまらないだろうと思って出かけていったら、これが意外なんですね。ヨーロッパなんかよりも、はるかにホットなんだ。リビングシアターは、なかったけどオフオフ・ブロード・ウェイなんかブランキーで、ひどく面白い。それで思ったんだけど、ドラマの面白さってのは現実と函数関係にある。それはとても歴史に似ている。さらにつきつめてゆくと、現実とドラマの区別なんてのは全くあいまいで、その地平線がはっきりしない。よく考えてみると現実なんていうのも、物が移動したり、物が形になったり、形がこわれたりするだけで、それ自体ではおもしろい訳はない。ただ、それを思想の過程の中で劇としてとらえ直すことが可能になる。劇そのものより大切なのは劇的っていうことじゃないんだろうか? 大学闘争もそうだし、大衆団交にしても劇なのか劇的なのか、とても問題だ。そこで今日は劇的ということについての考察から始めてみたいと思ったわけですね。僕の考えでは、「劇」というのは、悲劇だとか喜劇だとか活劇だとかいろいろ分類してみたところで、その究極は必然性に統べられている。それは物理学的なんだな。ところが「劇的」ということになると偶然性も内包することができるようになる。そこで、ここでは「劇」と「劇的」との差についての検証からはじめたいと思うのですが、どうですか、磯田さんあたりから。

磯田 大衆団交の話が出ましたけど、僕自身中央大学で徹夜団交やって、乱闘事件があったりしてけが人が出てるんです。バリケードとか大衆団交ってのは非常に演劇的なものだっていう気がするわけです。デモ行進ってのは仮装行列を連想しますし、バリケードってものを芸術論的に考えてみると、規格化された大学ってものに対して一種のアングラ空間をバリケードによって作ってるんじゃないかという気がするんです。アジ演説なんかにしても、心情的には単純かもしれないけれど、そこに現れてくる言語の問題なんかかなりおもしろい性格があるんじゃないかと思いますが。

芥 バリケードの中と外が全く別の価値観があるってのはどういう所からいうわけですか。

磯田 たとえば、日生劇場的な劇場の構造とね、近代的な教室の構造はすごく似てるわけですよ。舞台があってその上で教師がモノローグをやってる形でしょう。それに対して、バリケードの中の、たとえば自主講座などというものを考えてみる場合、いわゆる教え、教えられる発想に対してね、アングラ演劇の発想になっていると思うんです。

芥 むしろ、どっちが当り前かだけですむ問題だと思うんです。それはバリケードの中の方が当り前なんであって……いわゆる、無秩序はありえないわけでしょう。大学っていう幻想がこわれた空間ならば、大学っていう幻想そのものの空間よりはいいわけですよ。違う価値観があるっていうより、むしろ片方は全く価値観がないんであってね……。

磯田 その場合ね、片方がなくなってしまった場合、もう片方が叛逆としての意味を失いはしないですか。たとえば、外側の圧力がなくなって内側のリアリティが果して保証されるかっていう気持があるわけすよ。

寺山 バリケードの中と外の価値観が違うという考え方は、要するに所(ルビ:ところ)的発想なわけですよ、場所的発想……イレモノ的発想だ。しかし僕なんかは場所的発想で価値観を考えるという習慣がない。───外形を区切っても仕方がない。大学とか劇場とはそれ自体で観念なんであって、内と外とを状況的に分類するのは無意味です。

芥 僕はベルクソンの逆をいうんですけど、秩序というのはあり得ない。二つの無秩序がある。一つの無秩序をのりこえるさらに大きな無秩序が出て来たとき、それが劇的なものであり表現につながる。だから営業中の喫茶店というひとつの無秩序の状態、そこへぼくの無秩序がのりこむわけですね。それで少なくともそこで芝居の時間中は喫茶店を破壊したわけでしょう、ある意味で。だから、二元論な成功を進めるから駄目なんじゃないかと思うんですよ。どの程度可能性に対して手を広げているかで、ラジカルかラジカルでないかが規定できるんじゃないかと思うんだけど。大衆団交が演劇だ、バリケードが演劇だというのは分るんですけど、あれは演劇的なものでしょうね。誰がつくったかっていったって誰もつくっていない。いわゆるしいていえばロゴスでしょうからね。時代っていうかさ、蓋がひっくりかえされて、歴史が復讐してくる、すると時代っていう幻想がこわれる。これを持続するのが何かっていう問いで、いつもつまるんですけど、そのへんをやらかすのが一応芸術家といわれてる人の仕事じゃないかと思うんですけど……。


殺人空間───建築としてのスチューデント・パワー


磯田 僕の家はだいぶ古くなっています、十年位前にはこういう家から脱出したいという気持が強かったけれど、今はちょっと違う。旧世代とは別の意味で再評価してるんです。話は飛躍するけど、安部公房が日本海を好むというのは面白い。なんでもかんでもウイスキーでなくちゃいやだという人がいるけど、それは文明開化主義と同じだな。寺山さんの芝居でも、あの母親のイメージはベタの土着派と違って、やっぱり風刺的なものが入ってる。それが現代なのであって、何でも近代的ぶるのは結局古いんです。家は住めればいいと思う。マンション族というのは、案外古いんだ。買えないヒガミかもしれないけれど。

寺山 建築を考えてみると、だんだん機能的な意味での住みやすさと関係なくなっていくわけですよ。そうすると建築家はだんだん人間の生活的とはベつの機能について考えるようになる。そして建物にあわせた人間が出来ればいいんじゃないかって考えるようになる。これは空間の「法」だ。

芥 むしろ人間がどこにいるのか分らなくなってきてしまっているから、どこにいるのか分らせる建築ってことでしょう。人間を変えるんじゃなくて空間を変えるんだってことになる。

原 たとえば昔みたいにどういう風な人間があるべきかなんて答えられるとすると、生活に即したものを作れるわけですよ。ところが今はどういう人間があったらいいかなんてことは分からなくなってきている。

芥 劇的な建築ってのは、ピラミッドと中世の建築と、無限な岩に掘ったがんくつね。みんな空間をそこに存在させてるでしょう。心情的に砂漠にピラミッドを作ることによってピラミッドが光るわけでしょう。教会もそうです、教会の外と内は全然違う空間があるわけ。

僕は建築ってのは全然分ってないんじゃないかと思うんだけど。むしろ建築家っていうひとの個人をもち出したことによって個人主義の影響で……建築ってのは元来そういったアノニマスなものだったんだから。再び個人主義を捨ててアノニマスにもどろうという働きじゃないのだから、考えれば当り前になってきたってことじゃないかな。

寺山 いろんな物が変って来てる中で、もちろん映画なんか非常に積極的に変って来ている。映画そのものの本質への問いかけが生まれ、廃虚に映画が写ったって、空に映画が写ったっていいわけだし、人間をスクリーンにしたっていいわけだ。光と影は、どんなところででもとらえることが可能だ。ぼくは、インターメディアとかマルチスクリーンが映画分野での拡張だとは思わないが、しかし、映画というのは一つの都市空間みたいなものになってゆく。ところが、黒木さんなんかはきわめて従来の映画作法を守っているわけですが。そのへんについてはどうですか?

黒木 そのマルチスクリーンとかなんとかありますね。全然そういうものは興味がないんです。生きていることが僕にとって劇的なんだけど、劇的じゃないものをどういう風に劇的にとらえるかという事でいつもダメになってくるんです。つまり表現の問題だけど。全然つまんないんだなあ。

寺山 何がつまんないの?

黒木 生きてるってことですね。相対的に言えば一番興味あるし……。つまり、現実の方がずっと起承転結がありそうな気がするんですね、でも起承転結つけると全然つまんない。

寺山 結という発想はひとつの必然性に向う流れだな。起承転結といくとどうしても政治思考的な発想にこだわっていくんじゃないかという気がするんですよ。あらかじめ準備されたことへ向って、じぶんの意識をひらいてゆくと何でも自由になり必然性になる。

黒木 つまり現実の方が先行していますね、定着した時にすでにつかみそこなってくるんですよ。

芥 逃げてるよそれは、いきつく所になってしまってはだめだってことでしょう。それでいつも革命は起らないんだ。

渡辺 ひとつの完成したものを作るってのはそとにひとつの限界する自分をみい出しちゃうわけです。だけど、生きるってことにはその限界性が全然ないと思うんですよ。そういう点で僕なんか共闘会議で反乱おこして、新しい大学のイメージをポンと出すんじゃなくて、運動していく中でそのイメージが、どんどん変化していわけですよ。そこにおもしろさを見い出すのであって、あるひとつの完成した物を創り出すことにおもしろさがある訳じゃないです。

芥 そりゃそうだと思う。弁証法ってのは末広がりなんだから。

原 雑誌の座談会によくあるんだけど、全学共闘会議代表と、大学の経営者なんかでお茶のみながら話してるわけですよね(笑い)。

寺山 にもかかわらず、大学生となぐり合っているのは全く関係ない鉄カブトかぶった善良な童貞の警官なわけだ……手つづきの中にだって実存がある……むしろそれが大切なんで、大学の経営者なんかだってただの手つづき過程にすぎない。

芥 その散文性にはなかなかかなわないですよ……。

渡辺 我々がやっているときに新聞社なんかくるとほんとに腹立たしくなってしまいますよ。ああいうのはひとつの完結したものとして表現されてしまうわけですよ。

芥 だって結果的にみれば空間を作ってくれるんだもの、その生の情報へ行くでしょう。

寺山 やっぱり非常にテレビ的ですよ。僕は共闘会議ってのは、ある情報社会の産物だって感じがする。闘い方がものすごくテレビ的でしょう。

中平 でも大昔の戦争の方が、もっとテレビ的でしょう(笑い)。

寺山 大昔の時代の情報について、同時代の評価と歴史という学問が出来てからの評価ではずいぶん違ったものになってるんだろうと思うけどね。

原 今はだいたいテレビみたいだといわれて、それが一つ約束ごとにしばられる形でやってるという批判があったわけなんだけど、他ならぬ全学共闘のあなたはどういう風に思いますか。

渡辺 確かにその通りだと思います。自分でも一般の人にも分る。こういうことがあれば次に、こういうことが起るだろうと予測できる。

原 だからいろんな大学で微妙な差があるかもしれないけれど、それがどうも心配するというか気になるところなんですよ。横浜国大で非常に初期的な段階で封鎖が始まったわけですよ。東大と向じ様な形で行なわれているわけです。昨日そこの学生に電話して、「そろそろゲバ棒、持ったか」っていったら「まだです」って言うんですね。非常に、パターン化されている気がする訳ですよ。そういう所が問題と言えば問題かもしれませんね。

中平 ただね、外側から見た時に形として具体的にヘルメットかぶって、角材もつことではパターン化されているのだと思うけれども自分が戦いの中でどんどん変質していくわけでしょう。

原 だけど果してね、各個人が同じものをトレースしてね、それで変化したということは疑問があるんじゃないですか。つまり、あることが起ったわけでしょう、それを追体験すると、未来は本当に分らない。分らないにもかかわらずそれをやっているのがまさに今の意義があるのだから……。にもかかわらずトレースを形式としてもトレースしてしまうし、意識の上でも同じようなトレースを厳密に言えば違うかもしれないけれど……。そういう段階でやってるとなると、やっぱり僕は問題だと思うね。

中平 日大では殺しちゃった訳でしょう。事故かもわからないけれど……。ひとり友達がいるんですよ、ハンサムで自動車に乗ってニコニコしている奴なんですけど、それがたぶんからんでるんだと思うんだけれど……殺しちゃうわけですよね。それは変質だと思う。

寺山 要するに建築としてとらえたスチューデント・パワー空間は、屋根だとか窓だとかひさしのとりかたなんだという話でしょう、原さんの言ってるのはね。

原 でも、スケールの問題がねちょっと気にかかるんですよ。そういう論をさがしているときにもかかわらず、かなり同じような体験をする人間の方がある程度、多くなっちゃうとするでしょう。そうすると運動全体としても各々でそういう運動なり、環境なり、状況なりを作っていくわけではないから、どうも作家的な立場じゃなくてもやっぱり問題になってくると思うんですよ。

寺山 我々の演劇では演出というようなことがあるけど、現実の中でも演出ということがどのように可能なのか。たとえば、もし革命を演劇と考えた場合、演出者の役割とは何だろうか、誰が演出家になるのだろうかということも問題だな。

芥 むしろ演出家じゃないでしょう。その種のものを演出する可能性としてあるわけで、それを可能にしようとすることだから。

原 実際には演出家が出ちゃうから、パターン化が起っていると思うんですよ。

渡辺 だからいってみれば、演出しているのはだれかといえば、マスコミでしょう。

中平 さっきの学生の話に戻りますけど、非常に似ている訳です。演説がありますね、僕はヤジ馬で聞いていないけど、皆んな聞いてないんじゃないかという感じがするんです。

渡辺 そうですね。

中平 あれはひとつの演出であってね、ある純情な少年を殺人にまでもっていくという意味での演出じゃ全然ないと思うんですよ。だからあの言葉が全くだめで、とらえられないということを前提としてしゃべっている言葉ね、真実の言葉とは何かというと、人を殺すようなそれが、その人にとって真実のことばという風に考える。

芥 人を殺したところで、二つの可能性が出てくるわけで、一つはアナーキスト団、まあ街頭ブランキズムだが。

寺山 にもかかわらず、解放区をつくったり劇場をつくるでしょう、まあステージを作るとかする。地平線をほしがる。それが問題だな。

渡辺 劇場を作ったら、それはもうこさわれるだけですからね。

芥 それは、一応舞台を作ることになるけれど、そこにいる人間……僕たち人間が人間を演出することが、かなり不可能になっちゃっていることだよ、さらにそれを演出しなきゃあなんない、先には。演劇やっている奴ならいつでも、街頭ブランキズムのひとつにならなければいけないみたいだね。

磯田 さっき学生運動の問題がでましたけどあれはやっぱり近代劇の発想を教師がいかに温存するかっていう問題とかなりつながっているような気がする。オールド・ジェネレーションなんかだと非常に自治、自治ということを言うんだけど、実際考えてみれば今までの大学制度というのはある意味ではスターリン型のピラミッドですよ。それが下から出て来たトロッキスト的発想のものによって全然ひっくりかえっちゃってるのに、オールド・ジェネレーションはまだ、スターリニズム的なものがですね、アカデニズムの絶対性なるものによって自立しうるような幻想をもっているわけです。ところが僕らそれが全部こわれちまって意識の上ではもう学生に対して全然彼らを裁く根拠をもってないわけです。そして、下側から出てきたトロッキー的な叛逆を一切、粛正する能力を失っているスターリンの末裔という風に自分を見てるわけですよ。

寺山 現実に学生運動の闘争過程を見てると学生側にはドラマがあるわけです。劇的なんですね、ところが大学側っていうのが一向に劇的じゃない。つまり、「話は分るんだ」という先生が意外に多いですよ。つまり学生はある絶対を求めているが、大学側には相対主義しかないんだ。理性はあらゆるものを部分化できるという思いあがりがあってね、相対的なるものは、すベて劇的であることができない。

磯田 教授会が劇的にならないのは、要するに中途半端なリアリズムを捨てきれないからです。進歩的な物わかりのいいほど、その物わかりのいい折衷的な線をだすんですよ、技術論として。それだから、劇になりようがない。物わかりが悪く思われることがいちばんこわいという感じね。じゃあ、いっそ物わかりがいいんだったら全部のんじゃって、おりちゃえばいいって僕は内心思っているわけですよ。僕は処分に関する投票の時はいつも白票を投じます。

寺山 非常に進歩的な教授が突然、学生を支持するというハリ紙を出したりするけれど、学生が要求しているのは、大学という形態への否定、つまり大学なんていういれ物で人を教えるという発想に対する不満、教授という職業そのものへの疑いであって、バカにするなという発想があると思うんですよ。それを支持するっていう進歩派教授の発想が僕は全く分んない。そうだったらさっさと大学をやめてね。井上大学とか、藤堂大学という名で私塾でも始めればいいんじゃないかと思うんだけど……どうですか。磯田さんなんかでも磯田大学なんていって、自宅へ生徒を呼んでかなり高い授業料をとったらいいと思います。

磯田 (笑い)僕は井上清っていうのにやっぱりかなり疑問をもってるんですよ。吉本隆明が東大の加藤を批判する場合ね、吉本隆明は絶対、教師なんかやりませんからね、あれは筋が通ってるんですよ。ところが井上清だったらやめりゃ食えるんですよ、啓蒙的歴史書でずい分かせいでいるわけです。ああいう人がいきなりああいうこと言いだすとね、こいつはインチキだという風に考えちゃうわけですね。だから、だまってやめるっていうのがいちばんきれいだと思います。

中平 どうあれかっこ悪いですよ、教師であることがね。俺は相当かっこいいと思っているとするとね、全部いいとこやられちゃうわけですよ、学生にね。それを現実に体験したんですけど……。性に合わないわけ、そうすると学校やめるより手がないって僕はやめたんですけど。

寺山 そいでやめたの。

中平 ええ。だから支持するとも言わないけど……だからスチューデント・パワーっていうから主人公はスチューデントですよね。

寺山 どうして、スチューデント・パワーっていうのがでてこないんですかね。

芥 だってパワーのない人がティーチャーになるですからね(全員笑い)。


ユートピアの告発───演出の砦


寺山 さっきの演出ってことですけどね。演出なんてものが全くないのがユートピアとするならば、我々はユートピアを望んでいるんだろうかどうだろうかということも問題にしなければならないと思うんです。

原 僕がいいたいのはそれがでちゃうっていうことなんです、演出者が登場しちゃうっていうことなんです……そこを問題にしてると思うんです。

芥 演出家がでてしまうってこと事体、演出家が存在しないってこともあるでしょう、仮説でいえば。政治の次元では全く可能なんだろうけど。

寺山 しかし、あなたの芝居でも演出がきちんときまってるんだな、役者は秩序正しく動いて……

芥 結局、稽古の初日から本番でしょう、僕の場合ね。むしろふだんいるっていうこと自体ひとつの稽古なんですね、そこにいるっていうこと自体。僕はなんにも話してないからこれは風でしかないわけで……僕をすどおりしてゆくのは、おそらくね。それは僕がある程度、演出して言っているからだけど……そこまで下がんないとどうしてもダメなんだなあ、それでも失敗するんだから……。いわゆる、できるだけ可能性に手を広げたつもりでもまだとり逃がしちゃったみたいなところがあるわけで……だから完全なのが一回できたら後は何もやりませんよ。終ったたんびに完全でないから、次々に、しょうがないからやるわけ。

中平 演出っていうのは、たとえば芝居をやったり、建築やったり、小説かいたり、映画もそうだと思いますけど……構築していくわけですよね文化として。そういう意味で、どんなに自分から逸脱して、たとえば世界とふれようとしても、つまり持続的なロジックがある限り、どうしてもつきまとって演出家になってしまったりするわけですね。そこを、写真っていうのは第二芸術みたいなもんで、どんなに演出しようと思って、ひとつの観念なら観念に一生懸命、ひきいれようとしても写真にしてみると何のことはない。俺が撮ろうが誰が撮ろうがつまり、ここにこういうものがあってこうなってこういうふうに写っている、全く俺とは関係なくって……そこが面白いわけ。

芥 それが認識ですよ。

寺山 逆に居直っちゃって、演出家になりたいと思うようになった。現実を演出するね……たとえばひとりの役者を肥らせようとしたら初日まで肥らせなきゃあいけないんだ、俺のいう通りにならなきゃあ演劇は失敗だという風に居直っちゃってもいいんじゃないかという気がするわけです。ユートピアなんて欲しくないよ。だからそういう意味で僕はやっぱり、共闘会議なんてのもヒーローを廃止すべきだと思うんです。無名大衆の英雄ってんじゃなくて英雄が濫立してね、スタンドプレイがさんざんあっていいんじゃないかと思う。今井君が最後に安田講堂の時計台で演説したでしょう、途中でやめちゃったけど。歌を唄ったりさんざんやりたいことやればよかったのに、非常にまともに論理的に語っていって、語り終ってやめちゃうんじゃなくてさ、結論のない発想で、ジャズのインプロヴィゼーション的にやればいいと思った。たとえば中平さんがそういうふうに、つい演出しちゃう事から免がれる為に、写真は第二芸術だなどと言って、ワキ役的な顔をしながら少しずつ主役になろうとするんじゃなくて、むしろ居直ってしまえばいいんだ。写真は演出であり、人生は台本である。

中平 (笑い)だから、その写真の中ではね自分はまさしく演出家だと思っている方だと思うんだけど……あるものをただ撮るんじゃなくてね、つまり、創るんだという気がまえなわけ。徹底的にそれにこだわるんだけど、ぺろっと一枚の写真になった時にね、もう違うと言うのが面白い。

寺山 これだったと思った時はもっと虚しいよ。つまり、これでもなかったこれでもなかったと必死になってるところが実存なんだ、と。

中平 写真であるかぎりそういうことはできない。意識を全部浸透できないからね、すみからすみまでと言っているけど、たかだか、フレーミングということでしょう。全部は絶対浸透出来ないんです。


壇の拡張───パルチザン状況


寺山 批評家もやっぱり、文壇とか、作家とか、ことばとか、そういうふうなものを演出しうると思いますか。

磯田 やっぱり演出しますよ。

寺山 たとえばあなたが、生まれて初めて書いた小説家のものを批判するとして、それがほめられるかどうかで家中のものがすごく問題だっていうやつを、あっさり、くだらなかったと書くことで、そいつが自殺するかもわかんないってことを、たのしむ。つまりセクトだな。一つのジャンルの部落社会的共同体の中で、批評を考えるときにそれは大いに権力的だ。情報社会では批評ということが非常に権力的だということの上にのっかってるわけだな。

磯田 それはつまり既成文壇が、これは絶対ほめそうだっていうものとか、型にはまったこじんまり出来上った作品で、しかもそれが二十代の新人だと非常にイライラしますね。そうするとサディスティックな快楽がでて来ますよ。

寺山 大物の批評家がみんなくさすという発想は状況的すぎるが磯田さんのほめてくれるのだけを期待している人をくさしたりするところで、そういう状況論とべつの論理が生まれる。

磯田 そういうのは、僕がほめると思ってないと思うよ。こないだの芥川賞は、なしでしたけどね、あの候補作が九つあったわけですねで僕は黒井千次の「穴と空」って、非常に妙な小説なんですが、会社があってね、その社員がだんだん会社にこなくなるわけ、何してたかっていうと、自宅のゴミ捨て場の穴を掘ることに無償の労働の喜びを感じてですね、つまり失踪者が穴堀りに夢中になったという話しなんです。僕、それが一番気に入ったんで、そいつを予選のアンケートで推選しました。しかしそういう作品はやっぱり既成文壇では受けない。

寺山 何々壇というのがっぱいあるけど、僕は非常にいいことじゃないかと思う。これは一種のパルチザン状況ですよ。だから僕はやっぱり壇というのをいっぱい作るべきだと思うんですけど……。だから文壇なんていうのはだんだん流行らない部落になっていくという形でいいんじゃないですか。それがなまじ、ジャンルの綜合化の名の下に、大状況下に綜合されてしまう。

中平 学生なんか何壇だろう。

芥 スパルタカス壇とか(笑い)。

中平 それは党派ということじゃないんでしょう。

芥 言わゆる縮少再生産の場合、部数を作れと言うことで、そのあとに消滅しきったっていうこと。要するに劇的というものは一個も現われませんね、詩の場合は、まあなんとなくロゴスをつき刺すみたいんで、いわゆる、言葉と言葉の間が空白でそれがどの程度末梢に快感があるかで決まるのだと思うんだけど。僕は今、全然書けない状態になって、これはいい兆候だなんて思っているわけなんだけど……。前は、言語と言語にものすごくすきまあるから、それを肉体で埋めてばっかりいたんですよ。だから、脚本に合ってないということ自体、もうそれだけ保守的なんですからね。(笑い)脚本に合わないやつをどんどん、どの程度までぶちこめるかで、さきの、演出家が不在か、不在じゃないかという問いに近づけるし……。

磯田 ですけど、肉体で埋めるという発想は本当に根強いですよ。

芥 しかし本当は、ことばで埋めない限りどうしようもないですよ。肉体なんかで埋めるから心情で困っちゃって、物語しかできない訳でしょう。読み物ですよね。読み物、これはカタルシスですからね、少なくともカタルシスっていうのは何の役にも立たないんで、いわゆる、世界は作るんじゃなくて、起るものなんですよ。

芸術家の権力意識

寺山 黒木さん「キューバの恋人」を、たくさんの人にみせたいと思いますか。

黒木 いや、いちばんあれはあんまり恥しくて見せたくないけれども、見せない限りちょっと次の作品を作れない状態でね。

寺山 あの映画に関していうんじゃなくて、黒木さんはいつも出来る限り見せたくないというんじゃないですか。

黒木 そういうとこあるな。

寺山 僕は演出やるということを信じているから、色々だましてね、これは是非見てもらいたいとかいいながら、たくさん見せるべきだと思いますね。もしそれが、見せたくないという蓋恥心と裏はらになってできた映画だったらなおさら、その差恥心を拡大することの喜びを見い出すべきではないんですか。

芥 黒木さんは、そういう三島的な他思考ってのが全くない人だと思うけど。

黒木 たとえば、ワンカット撮るでしょう、右から左へ歩きますね、と左から右へ歩いてもいいし、奥に行っちゃってもいいし、困っちゃうんですよ。突ったってでもいいし、通らなくてもいいんだなあ(笑い)。だから、つながっているとぜんぜんへんです。
やっぱり、演出家の持っている権力意識みたいのがあるんですよ。撮っちゃってOK出しますね、OK出した時に何か非常にむなしいんだけど……つまり、この権力というか、あの誠意っていうか、そういうものの充足をいつもおびやかしますね、演出家という存在に対して。そのワンカットの中で、何んか天皇になったみたいな感情のすりかえがきかないんです。

寺山 黒木さんが台本に「クシャミ」と書く訳ですよね、すると津川雅彦がクシャミする。「これでいいですか」、なんて言ったら、冷い顔をして、もう一回しろと言うとします。しかし何回クシャミをしても実は、黒木さんの内的必然性においては「クシャミ」なんか必要ない。ないことを要求することでてれたりすることだと思うんです。だから僕は何でも大人数に見せるべきだと思いますね、「数の増大は、陶酔につながる」だな。

芥 かかれた批評とか、いわれた批評っていうものは、たいがい書いたとき、いったときうそになる、で、僕は全く気にしないわけですよ。感想でしかないからね。僕の場合、喫茶店であけっぴろげてやる、そうすると通行人、全く関係ない奴が通る。全く無関心に通りすぎた時、強烈な批評でカーンと頭にくるわけです。たいがい九十九%は、ぱっと一瞬、そいつが町でもっていた目的が消えて、立ち止まるわけだけれども……。

寺山 つまり政治っていうのは、管理だなんて言葉を使い始めたら、それに対して反管理なんてことじゃ勝つことができない。管理には管理を。そういう発想というのは時には必要になってきて、自衛じゃなくて、つまり……攻撃には自衛ではだめである。政治の論理みたいなものを超克していく為には、本当は、芸術なんかじゃ全くだめです。

原 演出っていうのは、僕ら建築とか都市なんていうようなことやっていると、ものすごく演劇なんかと違うと思うんですけど。

芥 全く同じでしょう。

原 とにかく、ひそやかっていうか、しめやかっていうか、そういう演出をせざるを得ないわけですよ。さっきの話じゃないけど「クシャミ」して下さいと言うと、「クシャミ」をちゃんとする訳ですよ。ところが建築の場合……たとえば、ここがトイレですというふうに決めておけば、そこで朝食を食ベるというわけにはいかない。それに似たようなことはいっぱい起ってくるわけですよ。ここで、こういう風にだんらんしてほしいって言ってもね全然だんらんなんて起こりっこないし、起こっても期待なんて全くはずれて行なわれるだろうし、そういう所にね、何か知らないけど作る訳ですよ。

芥 逆にいえばめしくった所が食堂になるってことだからね、芝居の場合。

寺山 つまり存在が本質に先行するって考え方だけじゃ済まないようなところがあるわけだよ、我々の生きている感覚の中では。演劇の発想ってのは、便所でめしを食ったというそういう思いこみみたいなものが問題になってくるわけだよね。

芥 思いこみがあると、僕は信じられなくなるんだけれど……。

寺山 喫茶店の「本質」をずい分問題にするでしょう。

芥 だって僕が喫茶店でやる場合なんて、僕は通行人ということみたいだから、ある意味では。どこまで通行人たりうるかってことだから。僕が裸になるっていうのは少なくとも前の八百屋の果物の光がむしろ僕を裸にするみたいなことで……。

寺山 きみはやっぱり詩人だね、詩人っていうのはひじょうにモノローグ的なんだ。


慮構の偶然性───恥しさの意味


黒木 僕はいつも不思議に芝居でどうしようもなく気はずかしいんですけど……。まあ六時なら六時に芝居がありますね。すると、ちゃんと出るんですね、舞台にその時間に。病気とか電車におくれたりするようなことがあるはずなんだろうけど……。あれはすごく画期的なんですね。

芥 六時にやるっていうことはものすごい苦痛なわけですよ。凋落もいいとこですよ、それをどう凋落から高見へもっていくかということも稽古になっちゃうみたいだけど。僕の芝居は六日やれば六日とも全然ちがうわけで、やりかたはね。

寺山 六時にね、紙にかいた笑いということをやるために、人が出てくるのが必然じゃなくて偶然だと思ったら、これはすごく怖しいことでしょう。

黒木 そうですね。

寺山 あなたは自分の映画が恥しいというように、芝居も恥しいという。それは、社会生活というものが、恥でコミューンを作ることもあるというのを忘れているんだ。学生運動なんかやってる人はどうですか。恥しいなんて思いますか、自分たちのやっていることを。

渡辺 いや、僕たちには演出とか、そういうものがないですからね、そういう感情は出てこないですね。要するに、そういうことを問題にしたら、自分が電車の中にいるのが、全く恥しくなってしまうわけです。学生である限り大学でああいうことやるのが当然なわけです……一般的にそれを、ついはずかしいと感じる人もいるだろうし。そういう場合、飯くったりすることも恥しいと感じなければならないだろうしね。

芥 でも、それは俺たちのと、彼のいう演出とは別だと思うんだなあ。僕は最初、虚構で始まるんです。虚構で始まる人は強烈にさっきいった恥しさが起こるんだけど。その恥しさに対処するのが、やっぱり一番の悩みだからね。結局みんな空間に疎外されちゃうわけですよ。だから、わざわざ最少限の稽古をしたりするわけ。たとえば、町を歩いていて急に踊り出すことってのは全く恥しくない、ある意味では。急に目的をうしなわれることはしばしばあることだから。

渡辺 むしろその場に、自分がいないってことが恥しいですね。自分が演出する場に自分がいないってことが……。

中平 僕、それよくわかるな、言行一致だと思わない。つまり言った通りにやるのが政治だというんだろうな。

芥 その言行一致とは別の意味だと思う。だから自分の吐いたセリフをそのままやっていう、むしろそれは新劇の人たちがやっていることですよ。クシャミというとそうやるわけ。あれがその言行一致じゃなくて、自分がいわゆる一つの事物そのものでなければならないみたいなね、そういう、結局試してはならないことでやっていくわけだから、当然限界もでてくるわけだけれど、どこまで試しちゃいけないことを手の内に入れるみたいなことだから逆に恥しさがくるんじゃないかと思うんだけれど。


建築家と人間の間にもつドラマツルギー


寺山 建築家というものは最初は家をつくって、今は都市をつくるなんてなってますけど、そのうち国家をつくるってふうになってくるんじゃないですか。建築っていうのは非常に権力的でしょう……だって便所をつくったりする、人間に排泄を命じるわけですよ。それは、国家概念みたいなものを空間なんてことばでいいくるめながら、まことしやかにして国境をいつのまにかつくっていくっていうそういう恐しさを秘めているんじゃないと思う。

原 かなりそういうニュアンスはありますね、何か宿命的なもの、しらないうちにそうなっちゃうことが多分にあるわけです、僕なんかの場合は。

寺山 つまり、お前はどこにいるんだと言われると大体住所をいいますね。しかし本当にどこにいるんだろうかっていうことを建築家が教えてくれるっていうなら、建築家っていうのは偉くなるんじゃないかなあ。

芥 ある意味では建築家が国家をつくるっていうのは可能だと思うんだけど。たとえば土地持っている農民がその土地を出し合ってどっかから金措りるとして自分達で自分達の所有の団地をつくるわけ。団地をいくつもつくってタウンをつくる、それと同じ形式で今度は工場をつくったらどうなるか。自分達の土地に。それは還元するわけですけど、利益でいくつもつくっていったら、体制の中にいながら体制の手が一歩もふれないひとつの空間が生まれるわけですよ。

寺山 にもかかわらず建築家はねオーダーメードが多いわけですね。一軒の四畳半位のところに便所を四つつくる家をつくりたくとも、そういう注文がないとそういかないというひも的な属性みたいなものを常に持っているわけですよ。詩人は自分のために詩を書けるけど、建築家は自分のために家をつくれないという。丹下健三が話してたけど、非常に忙しいので自分の家を他の人にたのんでやってもらったって……。

原 それだから建築はおもしろいわけですよ。それでいながら何かをやってやろうと思っているわけですよ。

寺山 昔、変な大工がいて、入ろうと思うとしまってて、でてこようと思ったらあくドアがある家をつくったわけですよ。そういう建物と人間とがまさに葛藤するような、オーダーしたやつを敵にまわすような、そういう建築家っていうのはどうでしょうかね。

原 その組合せというのに無限にあるわけだし、実際に現われている要求は有限なものでしかないけれど、それをとり扱って各々の解答を出す。それはほとんど要求ってのが検証不可能です、だからかってなものが作れるわけですね。自由度が低いのではないかというような考え方は論理的には成りたたなくて、やっぱり自由度は同じように無限なんじゃないですか。

寺山 ただ、排泄するときね、建築家によって大便するときのポーズを変えられるってところまで来てないですよ。建築家が人間との間にドラマツルギーをもつとするならば、生活空間というものにどうくいこんでくるかというようなことじゃないかと思うけれど。

芥 それは結局あそびですよ、スノビズムの。

寺山 スノビズムっていうことばは違うと思うけど、遊びだっていうのはわかる。

芥 ちっとも劇的じゃないと思う、それは。

寺山 じゃあ、劇的だということは何だ?

芥 僕にとってはひとつの逆転だといいたいんですけどね。

原 逆転ということをもつというと?

芥 つまり言うことの逆転みたいなこと。正体がでてくるようなことね。俺がどこにいるのか、どこからでてくるのか。あれこれが実際にでてくるみたいな……結局、神についてずいぶん語ってきて、神ってやつをひとつの存在だと思ってきたけど、そのものをもってくるようなものですね、罪を感じるのは……。罪をおかすことはむしろ劇的じゃなくて罰がどっかから起ることの方が劇的みたいな。

寺山 それがスノビズムだといえば建築によって人間を罰することができるかという話をしているわけだから、それがちっともスノビズムじゃないわけだ。罰だって発想がスノッブだといえばそれまでだろうけど、つまり建築によって人間を罰することができるだろうかってことですよ。

原 僕はできると思いますね、できると思うから建築をやっているのだと思いますよ。

黒木 芸術っていうのは、やっぱりファシズムにつながっているんですよ。

芥 そういう空想を全部言行一致していくと中世のあの面白い変な文化になるんじゃない。ホモエロチックの文化だと思うんだけれど。いわゆる農耕民族の形態じゃないのかな。


自分の中の劇と劇的


原 こういう話をしていると、僕らは比較的演劇なんて知らないですけど、あそこかあそこかということが分るわけです、非常に共感がもてるわけですよね。現在スチューデント・パワーで共闘会議なんてやっているけど、話していることが非常に空々しく聞こえるとかそういう感想を非常にききたいんですけど。

渡辺 演劇と我々の運動と、どういうかかわりもっているかっていうことが知りたくてここに来たんですね。

原 たとえば、マルクーゼが書いていたと思うんですけど、カルフォルニアで警官隊とぶつかったとき、学生たちの中から何組かの男と女がでてセックスまでいったかどうか分らないけど、それに近いようなことをやり始めたということを言ってたんですよ。

渡辺 それでいいんじゃないですか。僕たち警官隊に向ってゲバ棒で対決するのと同じでしょう。

芥 結局、機動隊も学生も民青、三人そろってひとつのおまんこの中にとびこんでいるんだから。

磯田 この『地下演劇』を買う人は通行人であり、これを芝居とすれば観客ですよね、その場合どれだけショックを与えることができるか、うけたショックがどれだけ効力をもっているか。やっぱりそれに対してペシミスチックになりますね。現に自分がここでできるっていうことに恥しさがある。

寺山 僕はね今、ここに初体面の人が何人かいるわけですよ、芥君とか、原さんとか。やっぱり初対面の人と話をする。「出会い」はすべてドラマです。非常に幸せだ、幸せってことはおかしいけど。そういうことでつまりきわめて偶然的にドラマが在ったのではないかと思います。どうですか黒木さんひとこと

黒木 ひとことでいうとつながらないんですけど。僕が映画をやっている意味は、全く新しい正義のアクチュアリティを映画を通して表現したいと思っているのです。

磯田 その正義に対する一種の虚しさっていうか、ペシミズムはものすごくあるでしょう。

黒木 つまり作っているときは戦闘的でしょう。すると次の作品の間までたいへん苦しむ。

芥 凋落───

中平 僕は、結局こんな話を聞いてもあまりよく分らないところもあるんだけど、自分なりに考えると、……つまり、世界があって自分がいて、その自分が世界を見るわけなんだけど、一回みたときと二回みたときどんどん変ってゆく、何かゆらいでいるみたいなもの自分の根元の勇気がつまリ、劇的なるものだっていう気がするのです。だから結局、世界を見るんじゃなくて結局自分を見るということになっちゃうわけですけどね。

寺山 それでは今日はどうも。


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